かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

 

 

届けられた一枚
木がその布をつかまえる
うごきのある風と
うごかない木の対話
私から生まれた布を風が
届けてくれた
木がとどまることのない風に
そう口ずさむ

天からさす無数の光
私の手から横へ横へと
景色を織っていく

言葉のない語り
土から聴こえるさけび
誰かのかなしみ
だれかのいたみがきこえる

 

天からさす無数の光が
ひとにきがつかせようとする


いつのまにか
届いた一枚
声が聴こえる
わたしの前に
光さすほうへ




数年前に宮古島
織り作家である友だちのことを思ってかいた歌の歌詞

 

くらしが脅かされ、平和のためにたたかい、けれどただただ織作家として在りたい彼女の織った布は美しい

 


その島を含め世界を見渡すと美しいし
よかったといいたい
一方で
戦争があり大地もゆれ
心も揺れる

けれど


風がかつて木でもあった布を届けてくれる
その先には光
織り手は
(織りをはじめとするものづくりに限らず)
意をのせていのりをこめて
景色を織りなすのだと

 

 

やることが
明らかになっているひとは
これしかできないという

わたしにとっては

 

言葉を発しうたい紡ぐことこそ

いのりなのだろうと


けれどそれがわたしにはないと
おもってしまうときのあきらめのわるさはたぶん祈りについて彷徨っているのだと

 

ただてをあわせて
光にむかって

挨拶のごとく


祈ればいいのだよ

歌えばいいのだよ

 



木は教えてくれる

 

 

 

わたしはいつもゆく

とくべつな木に何かを置いてきたと思う

 

それがなにかももうわたしには忘却の彼方なのだ

また見つけることがあれば

もしくは

それをだれかがみつければ

 

それはなんであれしおりなのである

 

 

たのしむを

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おもいだすを

 

そもそもがうたうたいの相手は山で

海で空で風で

 

なんの疑いもなく

ただただその時の空にのって

口ずさむ

言葉が乗れば上等

言葉がなくとも口から音が出れば

しあわせ

 

楽しむを

 

あふれでるものを

楽しむを

 

満ち満ちているそのさまを

 

日は沈みまたのぼる

言葉なき方が通じる鳥の声

 

言葉がつうじあっているのに休符されている

人と人

そこに風が吹けば

葉が落ちて

 

また見飽きぬ

日を眺むる

 

 

和歌山ens にて

 

空の空 そして

 

けれど

 

空になった器に満たそうとしても

それはどうしても代わりのものではなくて

 

虚しいので

満たしても満たしても

そうではない、そうではないと

の繰り返し

 

山を歩いては穴の空いた器を携えて

歩く道中空にしながら

ようやく気がついて

 

空であることを感じる

いや

空であるのに

 

空でないように感じてた

麻薬のようなものが切れただけで

その幻覚に心は満たされていると

そして満たされていない

 

空、それも空の空なのだ

いやもっともっと空っぽなのだ

そこに徹するとき

 

ない

 

がいつのまにか

大いなる「ない」

に満たされていく

 

空の空とは

「ある」

 

わたしはある

IAM

 

イコール神といいあらわされる

 

 

「ない」

の深みをみる

 

 

ああないんだ

なんて虚しい

 

わたしはあるになりたい

とすがるようで

 

その、ないの

清々しさよ

 

満たそうとすることをやめた瞬間

また

そうせざるを得なくなった瞬間の

 

豊かさたるや

 

 

ものづくり・工芸

に惹かれるワタシ

 

 

空になった魂が求めて

工芸のたびをしたがるのは

たぶんそこと繋がる

 

 

禅のような思想と民藝が

強く繋がるように

 

言葉を使いたいと思えば思うほど

私から言葉は遠ざかっていく

 

所詮言葉は与えられるもの

求めるが執着するものではない

 

 

解き放ち

もしくは

とりあげられ

 

(主はあたえ主はとられるーヨブ記より)

 

 

取り去られたときもその空しさに

あの春のように味わうことがまた

できようか

 

 

 

空の空

 

 

色即是空,空即是色

 

玄奘訳『般若心経』

この世のすべての事象は,永遠不変の本質をもつものではなく,すべて空であり,また,空であることがこの世のすべての事象を成立させる道理であるということ

 

 

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あふれるほどに満たされた器が

いつのまにか空になり

 

そこを別のもので埋めようとしている

 

その話をしたら友は羨ましいと言った。

なぜならそこには思いもかけない想像を超えたもので満たされるはずだから

 

 

 

 

カラカラになっていた私はそんなはずはない羨ましいとかない、と思っていたけれど

確かに埋めようと思う何かとは違うものが私の器を満たしていった

 

この春から夏たしかに

私は思いもよらぬことで

器が満たされ続けている

まだ慣れない

 

 

20年ぶりに会う友と再会したのは

そんな頃の、空になった春で久しぶりとは

思われないほどに本質的な話になる

(きっと彼女もわたしの空っぽの器を満たす1人だったのだろう)

 

ソウルに20年以上居たのは知っていたがひょんなことで今年連絡が繋がった。

 

そして偶然の重なりで夏久々のソウルで再会したのだった

 

旅はメンバーで変わる

今回は工芸の旅だった

 

 

民藝運動の中で柳宗悦とともに浅川巧という

白磁などをひろめ韓国に骨を埋めた方がいて

 

その人を辿る旅にまではならなかったが

自分だけでは到底辿り着けない学びの旅となった

 

 

 

 

 

 

 

随分と前に滋賀の五個荘の麻会館

苧麻から糸をうみ、織りをするという体験をしたり、また苧麻というのが特別なものではなく巷にはえている野の草であるというのを数年前に知る

 

からむしも

韓モシ

 

モシ=苧麻であるということを

そして日本にある伝統的な織が百済からきている、と知って牛歩の歩みではあるが

朝鮮という国に対して親しみを覚えている。

それはもしかするとわたしのルーツが渡来人なのではないか、という憶測もある。

 

(私のかつての名字、服部はっとり、という名ははたおりから来ている)

百済のない世界が

くだらない

という話も今回きいた

 

今回寺にも行きたいというと

 

 

キリスト教の思想が大きくわたしを形づくってはいるのに

どうして寺に行きたいのか、ときかれた

 

それは聖書の伝道者の書が

般若心経に通じるところがあるからではないかと

個人的に推測する

(意味もわからずだったが、祖父が唱えていたせいで実は般若心経はそらんじている)

般若心経が実はハートスートラ

心のことを伝えていると知ったのはほんの少し前だ。

 

はたして私はキリスト者であるのかといわれるとこまるのはきっと惹かれるところがいま仏教にあるからなのだろう。

 

茶に惹かれるのもそうだ

茶は仏教とともに伝えられた

 

不思議なことに韓国のキリスト教人口は日本の比ではなくけれど仏教と共存している

 

唐辛子も日本では馴染まなく

日本経由だったらしいがそれもとても

不思議なことに

結局いま逆輸入のような形で

キムチは日常の食卓にある

 

 

話が前後するが

工芸、というか民藝に惹かれる

のは世界共通の普遍的な何かで

もちろん特別な高貴なものも素晴らしいのだが

民のものは

そこにある、そこに価値を見出さなければただの雑草、のような

人の手が入ることで素晴らしいものになるものに私は惹かれる。

それはいまは作家、とわざわざいうけれどただ

ただ普通の人がつくるものだったに違いない

 

いづれにしよ心惹かれるものをつくられしものがあるというのはすばらしいことだと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

本の中の人

 

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本が読めないはずだ

わたしは本の中の人だったのだ

記憶力はあまり良くないが

本の中の人が本を読む設定ならば

本を読むであろうが

 

本の中の人は

それどころではないほどに

船の中にいるように

波の上に揺らされて

 

おおうみのときも

凪のときもあっただろうが

 

せいぜい読むのは

ちいさな詩のみ

ちいさな詩であっても

それは大きな海であることもあり

 

ちいさな詩を時折よんでは

大波に波うつ船べりに

手を携えていくくらいしか

すごす術はなし

 

気づけば

本の外と本の中のあわいというか

寄る辺にいて

 

どちらでもあり

どちらにでもなる

 

もしかすると融合しているような

統合しているような感覚

 

彼方の感覚はかなしいかな忘れてしまったが

それでもほわりと身におぼえがある

いくこともできるだろうが

もう無意識にいることはあり得ない

不可能なのだ

本の中にいると感じつつ

本の中にいる

 

本が読めない

そう思っていた

一行よめば

彼方の世界にいってしまう

それはいうなれば自然のことで

 

いまは、「わたし」について

かかれている書物をさがしている

 

ああこれは

ああこの感覚は

私のことだ

と接すれば

 

それは「わたし」のことなのだ

 

 

2023.12.6

あおきよる辺

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1

 

あおきそらのよる辺を
うつすこころは
久しく待ちし光を
のぞみてつどう

わたしはまつよ光を
草の原の小さき水辺と

尊き
遠きみずうみ

 

やがてくらき青さは
よあけとともに
(光にとけて

 

 

ここにいる
ここにいるよ
いまここにいる

 

ちいさき水辺のほとりに

光となりて

 

2

 

あの人の寄るほとりに

よあけとともに

こぎだすように

ひかりが

さしてはのぼる

 

わたしはまつよ

光を

草の原で

風がつげるよ

よあけを

よあけのふねを

 

くらいうちに

櫂をもて

何もおそれずただ

ここに

夜のとばりをこえて

あわいのひかりが

わたしのうちにとどくよ

よあけとともに

 

(よあけの舟、歌詞改稿)