かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

踊ル暦 3/20春分

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はじまりのゼロ

 

(ゼロは1ではない)

無は有るということへの期待
もしくは内包

おわりがまたはじまる

眠っていたものがおきだす

土の中

死に向かっているのか
生にむかっているのか
有にむかっているのか
無にむかっているのか

拡散と収縮の環


芽吹く木々をみると
私の中のねむっていたものも
また、むく とする

たちあがる感情がまた
花を咲かせる

私もひらく
木もひらく
大地もひらく

空でさえ天にむかって
ひらいていく

 

 

そんな春を分けると書く日

 

#踊ル暦#地球暦の春分は0度

 

紅茶の時間

 

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写真はあかね軒さんの桜餅、菜の花

 

 

鶯が初鳴きするのをきいた朝

 

唖者は

唖者の言葉をきく耳を周囲の人が待ってるとき

唖者は

唖者ではない

真木悠介、気流の鳴る音、より

 

聴く耳を持つものがそこにいる

唖者という言葉はあまりよくないかもしれないが、少なくとも話がうまくできないというコンプレックスをお持ちの方は私もふくめて少なからずおられるだろう。

 

私は、一緒にいてなにか話さなくていいという友が20歳前にできて無口だったのが不思議とようやく話せるようになった。

 

多分波長があうというか、話すこと以外でなんとなく居ごこちがよいと、不思議と言葉もでてきたのかもしれない。

 

 

•ただ話をきく

•ただお茶をだして

•その人のすてきなところをみつけたらつたえる

 

 

紅茶の時間を主宰する

水野スウさんはその3つが私のしてること、とおっしゃった

 

 

誰が来てもいい無料の場所

子育て仲間がほしくてはじめていまは流行らないけれど。といいながら

流行らないからこそ少人数でポツポツと

毎週家を開けているらしい。

 

 

わたしには同じようにできないけれど

as it is

あるがままで

何気ない日々の中でめざすところは

そのような光のようなところ。

とめどなく励まされた。

 

 

子どもの頃、

銀座月光荘がスウさんにとってのその場所

自分のあるがままで素敵だよ、と言われたその感覚を手に場所を変えて

次は自分がそれを伝える立場になる

 

場を作っていくこと、お茶を淹れること、すばらしさを伝えていくこと、

 

 

 

 

スウさんの話は憲法へと続く。

その話はまたあとで

 

 

 

 

 

 

 

いわう

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今日は卒園式です。

一足先にお母さんたちにヨガとプレゼントしたいという在園のお友達から提案を受けて詩を書きました。

 

シュタイナー学校では通知表はなく、その子のための詩を学年の最後に渡されるというのをきいて、わたしも卒園するこどもたちのマークと、お母さんのイメージから詩をかかせてもらいました。

 

 

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アトリエイチイチのあさちゃんとのHeenという絵と言葉のユニットでは、もうたくさんのイメージの言葉をかきました。あまり知らない人でも逆によく知りすぎてどうあらわせばいいかと思う人でもふっとうかびあがる情景があります。不思議とその方とつながる瞬間があるのです。きっとそれはその人が思いもよらないものであったり、本来の自分をおもいださせるものであればさらに嬉しいのです。

 

美しいものが自分にもあるということをおもいださせてくれるおまもりにみたいになればという願いもあります。

 

こないだは結婚のお祝いにというはじめての依頼もいただきました。

 

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言葉であったり贈り物であったり

祭壇のような場所をつくったり

包みも華やかにしたり

 

 

お祝いというのはこちらも嬉しくなるもの。祝いたい気持ちと、祝われるほうも。祝うほうも。

 

 

、、、、、、、、

 

7年前も卒園式だったのを思い出します。震災後の影響に、あのころは気持ちがどこかへいってしまいそうでした。

まだなにも終わってない

7年。

終わったかのようにみえるけれど

おわってない。

 

私のこの祝いたいきもちは、

自分も含めての

次の生きる力。

いわう気持ちは生きる力だと思います。

 

 

 

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お母さんたちのお祝いのバスケット

 

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仮の住まい

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月の明るい風の夜に

 

魂を、その仮の住居から遠くへ運び 

 

目は光の世界へさまよわせる 

わたしの一番のしあわせ

 

わたしが消えてほかになにもなく

大地も海も、雲なき空もなく

 

ただ魂だけが無限のひろがりを

駆け巡る時こそや

 

                            エミリーブロンテ

女はみんな生きている

n’s cinema roomよりreport 

 

 

コリーヌ.セロー監督

Caos

邦題女はみんな生きている

 

知る人ぞ知る、美しき緑の惑星の、監督。

 

 

 、、、、、、、、

平凡にこなしてる日常の中にもそんなもんだと半ばあきらめつつすごしている

そんな女。

 

非情な日常だとしてもいつかぬけだしてやると画策しつつも

あきらめさせようとする圧力

希望を忘れない知性も砕けそうに、暴力に瀕死の女

 

そんな2人が路上で出会う

 

混沌としたなかにも激しくフロントガラスにうちつけられた女と、流血

 

横にいた夫はショッキングな出会い方にさえ蓋をする

車をロックし、洗車すればすべてなかったことになると本気で思う。そして世の中そんなもんだ。

その蓋の仕方に日々、日々しょうがない、こんなもんだと思っていた日常のおかしさに妻は気づいてしまう。

 

ドラマティックな人生を送ってきた若い女性の混沌さが目立てば目立つほど、平凡に生きてきた妻の隠された悲哀や夫の母の存在もないがしろにする忙しさにかまけた「息子」たち

 

瀕死の女性が生を取り戻していけばいくほど

妻の家庭の危うさ、混沌さが露呈していく

いや見た目には圧倒的に瀕死の女性からみたら平和だ

けれどそのぬるまゆい「平和」に隠されている

愛の反対語は無関心であるということを彷彿させる気づきの、ちいさな点、点、点、が結ばれていく。

 

 

 

 

男たちが強さを保持するために使う暴力も、自分もそれに縛られていることに気づかないふりをする女

 

脱エジプトの途中の苦しさに前の方がよかった、よいに決まっていると思ってしまう危うさと構造

 

女は瀕死の女が気になる。

そして彼女と生きる

 

男たちはふと気づく瞬間もあるが

どうすればいいか途方にくれる男

気づかないまま死にゆく男

騙されることに悦楽をおぼえる男

その幻想のまま現状がどうなってるかわからない男たちをあとに

 

 

海辺の家に辿り着く

共に座っている満ち足りたおばあさんの顔が印象的だ

 

私の周りにいる男性たちはこの中の男性たちとは違うのだけれど構造的におちいりやすい、また陥ってる社会の構図の突破口のような清々しさをおぼえた映画でした。

 

 

 

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dans le jardin

 

写真は四月に予定しているdans le jardin  のeventのimage

映画の中の海辺の家に少し近い?

 

庭から続く湖岸が心地よかった。

春。

 

 

 

 

庭の中

 

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年が明けてから友人からお誘いがありギフトボックスを数名で作ることになりました。

 

コンセプトやどういう風にギフトを作っていくかを考え、またそれを具現化していく作業をみんなで作るのはすてきな時間でした。

 

 

 

バレンタインというのはひとつのきっかけです。

義理チョコはやめようという某有名チョコレートのコピーもみましたが

 

本当の意味で自分を愛すること。

自分にプレゼントするもいいし、誰かにあげてもいい。

 

贈り物の名前をいろいろ考えたところ庭のイメージがでてきて

dans le jardin という言葉にであいました。

訳すると庭の中

 

さらに調べると同じタイトルにドビッシーの曲。

印象派のイメージとも重なる気がします。

 

庭は誰の中にもあるのです。

 

ドビッシーの、印象派には詳しくないけれど感覚的には近いものを感じます。

 

 、、、、、、、、、

冬の庭はまだ寒々しく、花も少ないけれど鳥はなにかを求めて私の庭にたずねてきます。 

偶然なのか

それとも神さまのはからいなのか

鳥が落としていった文のようなものから

植えた覚えのないもの

いままで憶えのないものがふと私の庭の中に

 

いつもよりも感覚をすませて

みたり、感じたりします。

 

 

手紙の中にはそんな風にいつもよりも自分をていねいに、そして立ち止まって

 

たべるにしても、のむにしても

音楽を聴くにしても香りをかぐにしても

ていねいにひとつひとつを手にするように触れていく

 

箱の中にはそんな風な時間をすごせるようにと祈りをこめてつくりました。

 

 

 

私の大まかなイメージをいつも具現化してくれるあさちゃん。今回もため息です。

 

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お誘いしてくれたハチヨコ製菓の陽子ちゃんのケーキは他ではあまり食べたことない繊細かつ美しいお菓子

 

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そして。まだお出会いしたのも数回なのに懐かしくも美しいともちゃんのつくる、イメージをこんなにひきだすものなのか、と驚くsou.filのハーブティ

 

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ハーブは2種類。

それぞれのブレンドに私も名前とちいさな詩をつけさせてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

water of January

 

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年の暮れからどうもこのメロディが離れない
ボサノヴァという名前の自転車との出会いからやらねばならぬ、と息子が急にイパネマの娘という曲のギターをやりはじめてからあらためて私もまたボサノヴァをききだした。
小野リサからはじまって、父親のもっていたジルベルトのレコードをひっぱりだすまでもなく怠惰にyoutubeをきく。


そもそも曲名を覚えない私は散々聴いた曲でも知らないことも多い。

あらためて、これすきだなあ、、と思った曲。

なんとかして検索したのは、
三月の水、もしくは三月の雨というものだった。

 

(先日もノラジョーンズの曲で一目惚れならぬ、一目聴きしたのも、検索してもらったらDecember という曲だった。

余談だけれどカレンダーライブができるかも。。)

 

メロディも、軽やかだし歌詞もテンポよく、一見するとポップな曲に感じる。
でもなんだかそういうことじゃない気がして作曲したアントニオカルロスジョビンのことを少し調べる。

一度有名になってしまったものの私生活が破綻しかけたジョビンが数年後這うようにたちあがったときの、春の芽吹きのようなくらやみからの希望を感じる。

何気ない日常の、本当に些細な発見にこそしあわせがある。大きな成功やだいそれたことが幸せなんじゃない。

けれどそんなささいなようなものを実はだれかれも少なからずもっていてそこに共感が生じるのだ。

 

 

植えていたことをわすれていた球根の芽が霜柱の間からでてくる。

山にいくと雪解けの水がちょろちょろと小川となって流れる音。

遠くの草刈りのエンジンの音。

 


喜びの、根底の地中感。暗闇。

 

3月

年が開けてあと2ヶ月後にくるその日。記憶も遠くない、必然とその日のことを憶い出してしまう。

繰り返される春の芽吹き、私が泣こうがわめこうが、へこもうが陽は昇りまた暮れ、月はのぼる。

ああ情けないなあと思いつつもその心のスペースに月の美しさを感じる

怒りの山の向こう側にあるスペース。

YESもNOもなく


山も歩きたいな
と思う。
、、、、、、、

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休みもあって翌日近所の山へ行った。
まだ冬の只中だけれど
滝に向かって登る途中、途中、滝から降りてくる小さな沢をクロスして歩いていく。

娘がしりとりをしようという。
歩いてる中で目にとまるものの括りで言葉をだしていくその単語はまさに
三月の水の歌詞そのものだった

小枝、ぬかるみ、鳥の囀り、木漏れ日
落ち葉を踏む音。
小雪、光、犬の声、吐息、せせらぎ
走る足音、、、

 

 

一月の水

 

 

今年もささやかな、けれどそこにこそ価値を求めて生きていきたい。

よろしくお願いします。

 

#青文字