一年があまりにはやくすぎていく
飾ることでその季、節、を立ち止まってみてみたい
一年があまりにはやくすぎていく
飾ることでその季、節、を立ち止まってみてみたい
年の瀬
一年が変わる時
年齢を重ねる時
往く年、来たる年
年の瀬、、
瀬ってなんだろう、
瀬をはやみ、、、
と意味も曖昧のままつぶやいてみた
誕生日を前日にした夜息子はバースデーイブを静かに楽しんでいた。
もうすぐ一年が終わろうとする18年前の今日産まれてきたひと。
産まれてきた祝福を思う前に私はその、彼を産んだ年の瀬を思い出してみる
自宅出産を夢みて近所の産婆さんというにふさわしいおばあちゃまの助産師さんにみてもらっていた。
あなたは安産よ、といわれ友だちのお産も手伝ったりしていたが突然の破水。
破水がなにかもわからないままNICUのある京都の病院まで救急車
うまれてはじめての手術を経て絶対安静で1ヶ月ベッド。。陣痛抑制剤に悩まされながらもクリスマスにはもう薬も効かなくなって陣痛が数日続く。
朝の検診の直後急におりてきてる状態で緊急帝王切開、、
当時は携帯もなくてもちろん公衆電話まで歩いてはダメで、やりとりはファックスか手紙。学生あがりだった若い母親の救いはまだ大学時代の友人たちが近くに数人いたこと
家から遠かったけれど運ばれた病院がバプテスト病院で精神的にかなりすくわれたこと。
ベッドから窓から見えるはずの大きなクリスマスツリーを
みることもできなかったけれど
何故ここに運ばれたのか不思議なほど整われた1ヶ月だった
産まれてきたちいさなちいさな嬰児は本当にちいさくてすぐにNICUへ運ばれていった。
休養の必要な私はすぐにはみにいけずに翌日車椅子でおとずれた
ちいさな赤ちゃんたちが静かに箱の中で眠っている
厳重に消毒した私の前にチューブベイビーといわれる管だらけの息子。
7ヶ月はまだ身体ができていない。
ガリガリの赤ちゃん
私の親指ほどの手のひらを、まだ抱くこともできない管理された箱の穴に手をいれてみる。
ちいさな手は私の差し出した指をぎゅっと握りしめたのだった
母乳は吸うことがまだできないとされていたので子がいないままに牛のような気持ちになって搾る。
辛いのだけれど、出産までの辛さのあとにある身体の多幸感が私を支える
産まれてすぐ未熟児特有の脳や心臓の疾患宣告目もみえない可能性があると言われつつも
彼の中にあるその、握りしめる力強さに不思議と何も不安はなかった。
うまれながらにしてそうやって人とは違う冒険する状況、またその状況に向かうのは今も同じなのだけれど、今よりも産まれた時の方が何かこう心配がなかった
それは祈りの力だと思うし、実は今もそうなのだと書きながら思う。
滋賀県からNICUがなくてたまたま
運ばれた病院には礼拝堂もあって、
そこのチャプレンが彼の名前を決めたとき仰ったことをいつも思い出す
「神と自分との関係が経糸、横糸というこれからの人との出逢いの中で人生を織っていくのですね。」
両親しか入れないNICUに入ることのできたチャプレンは
自宅に戻って毎日もいけない私に代わって祈りにきてくれた
もちろん当時沢山の方に祈ってもらった。
いろいろあるとはいえ、今の彼は祈り支えられてるな、と思う。
普通コースはもう、うまれたときからない。
普通ってなに?とつっこみながら
なかなかに面白い歩み。
悩みながらも動くときはびっくりする動き方をする。
今年はそんな風に思い出しながら
桜の季節まで入院していて最後、彼の横にいた女の子をおもいだした。
ミラノちゃん
ご両親はイタリアがすきなのか?と夫と話した記憶。
今年自転車でイタリアに行くなんてそのとき誰が思っただろう。
18歳がはじまる
祝福がありますように
感謝。
スカボローフェア
この歌の旋律と歌い継がれるのは香りなのだ
すでに過去にかいだ記憶の中で、いままでにかいだことのない香りが自分の何かとリンクしていく
何かのまじないのように
その香るものを口ずさみ想像する
ああうれしい、という気持ちのとき。
ああだめだ、という気持ちのときも
誘う香りの向こう側は
森のような、手入れのされた庭のような
その感情を溶かす心象風景
スカボローがどんな場所かは私にはわからないけれどきっとパセリー、セージ、ローズマリー、タイム
日本でももう認識の高いその草の香りがたちこめる場がきっとあるのだろう。と想像したりもする。
戦争に行った大切な人、旅に行って戻ってくる気配のない人
待つ者が、行くことのないその「スカボロー」を思いつつ祈っている
きっとその香り立つ草を想像していればどんな場所でも大丈夫、と。
繰り返しのメロディの中の、繰り返しのリリック。
風はおこってはまた消えて流れていく
薫りもその風にのってむこうからあちらへあちらからむこうへ届くのだろうか。
、、、、、、
room最終章終わって、10日ほど。
実は昨日キペルスパピルスのライブもさせてもらって
気持ちがそちらと混ざり合ってしまっているのだけれど
この空間のテーマとしてやっぱりherbがあるのだな、と感じる。ローズマリーの魅力に気づかせてくれたのもこの店のメニューからだし、冬はコトコトとハーブの束が鍋でかもされてる。
だされる水も
気になる植物は遠くのものであっても自分の近くに植えてみようと牧野博士もいう。
身近なのだ、けれど気づかない存在や小さいものにこそ偉大な魅力があったり
そんなことを気づかされる
近くで、、遠くを想う
たまには遠くにでかけたい欲も出るのだけれど妄想のように
本の中で、音楽の中で、家の近くの野原でその場を感じつつも遠くを感じる。
マニアックはやっぱり似合わないしなれないのだけれど私は私でいいのだと、
たかが、いや。されど小さな草の作用に圧倒される
わくわくする方へ
そんなこといっても、と
蓋をしてももれてしまうその香り。
しょうがない
それでしか生きられない
戀
イトシイイトシイトイウ心
絵を描く人、言葉を紡ぐ人の
名の中にある糸が
どんな風にイトシイイトシイと言いだすのか
天から垂れてくる糸の、どれを選ぶのか
結局
今あるものがただでてくるだけ
今あるものを紡ぎ出すだけ
虫が喰ったようなちいさなちいさな覗き穴をのぞいてみる。
薄暗いベールに隠れたような先にある風景を眼をこらしてみてみる。
おぼろげに儚げにでも“それ”がみえたときの喜び
'そこ'にあるものは今はっきりとは現されてはいないけれど
“みようとする心の動きと身体の動き”の
そして、そのもののプロセス
本当は、すべて知っている自分自身のことも神様はあえて
あまりわからないようにしているのかも、と思うときがあります。
私たちはおぼろげな世界にいるのかもしれません。
それはろうそくを灯す世界になにか懐かしいような
安心感を憶えるように。その薄暗い中のほうが忘れていた思い出や
願いを思い出すような感覚。
そしてstillroomという場所を繋いでいっている千鈴さん
そしてお話の場面が変わるように一章ごとに決まっていったguestのみなさん
それぞれにまさにstoryがありました。
さて9章。銀河鉄道の夜の最終章にして物語の中で非常に長い章でもあります。
銀河を、そしてまさに夜、あの世とこの世の、現実なのか非現実なのかわからない世界の中で
抽象的でありつつも大切な言葉のエッセンスをところどころで登場人物たちが語ります
“なにがしあわせかわからないのです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進むなかでのできごとなら峠の上がり下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。”
“ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろなかなしみもみんなおぼしめしです”
だれも悲しみや苦しみは望みません。けれどそんなことがおこったとき嘆くことは必要で傍らにそれをきいてくれる友人であったり、カフェで出会った人であったり、もしくは一人孤独に落ち込むときもこの物語の一節だったり、その中できいたメロディだったりがあり、嘆き悲しみのはてには必ず希望や祝祭があるような気がしてなりません。
roomは、ひとまず幕を閉めますが、そういう部屋のようなものがみなさんお一人お一人のうちにありますよう、祈ります。
12/10
room /stillroom
yuko kunomura
chisako Kita
orito Kita