かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

小窓

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今日、身体を診てくれる方がいて、その人はわたしに、

身体が気持ちのいい方へ

やりたいだけ

いやならやめていい

とききながらストレッチのようなものをリードしてくれる

 

痛む部分が本当に治ってほしいのか、と細かくきいてくれる

 

痛みがささやかであって

なにか違和感があるのが当たり前になっていて、

他人の話を傾聴するのはいいが、自分の身体にきくことを疎かにしている

 

それくらい我慢しなきゃ

とか

自分と他人を比べてあの人よりは痛くないのだから頑張らなきゃ、と心の痛みの声が大きくなるまで、そんなもんだ、と日々すごす

 

ささやかな声や、ささやかなぼんやりと映る景色はよくよくみないと、よくよくきかないとわからない。

 

自分を二の次にしている、その憤りから楽しいという感情を、自分が自分から奪った瞬間を目の当たりにして、

普段から贅沢しているではないかと罪の意識からなんとなく誰も言わずに電車に乗った。

 

どうしても行きたい場所があったのだ

行きたいをもう二の次にすることはしない。なにも世界の裏側に行くわけではないのだ。

(でも行かなければならない引力があるのなら借金してでも行くかもしれない。)

 

先日、内藤礼さんの展示に行って

生きることの祝福、受容、そしてその価値があまりになおざりに、ながされているという現実にストップがかかった。

 

私にただ話をきいてほしくて私のいうことをきいてくれない人はきっと私という対象がなくてもまた誰かを捕まえて都合のよい箱として話しかけるだろう

 

私はもうあなたの話をきかない、と決めたところで大丈夫なのだ。

 

そこで身体を壊すほどに気に病むことはないのだ

 

そこまで決意しないと私は私の伸びをすることができない

 

私はひさしぶりに気持ちの良い伸びをした

「身体にいい」

というジャッジすらない、

ただただたのしい伸び。

 

私の中の小窓からやっほーと声がする

 

根拠のない罪悪感

無理はしない

診断も気にしない

 

根拠のない罪悪感は

多分根拠のない肯定感へと

変わる

 

無理は結果怒りになるのなら

無理はしないで

やらない、という

 

診断はひとつの意見

私はどう思う?

をいつも自分にきいてあげよう