かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

イロノのことば

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そんな呪いのことばからはさっさと逃げてしまいなさい

 

劇中の、石田ゆり子のことばが年末深く刻みこまれた。

 

 

例えば私の場合、身体が大きいってことが固定して呪いのことばと現実になってる。

 

たまに集まる場で毒舌の人に心底憎くなるくらい落ち込んだときもある。

 

 

でもそれって呪いのことばを常に自分で自分に振りかざしているからこそ、引き寄せる現実と他人からの認識なのかも。また憎しみということでバッドスパイラル。スパイラルを逆転させてみよう。

 

そういうことからたまにフリーになったとき、意外と私はこの身体を気に入っていて、なに?わるくないよ?

と思うのだけれど。

 

 

身体的なことだけじゃないな、きっと。

自分の自信のなさや人と違ってたり、役に立たない、とか浮いてる、とか。

 

なんにもしないことが私の中でとても優先順位の高いことなはずなのに、やるせなさや、他の人ばかり褒められたりするとどんどん損なわれた感になっていく

 

でかいなーといわれるのは幼少の頃から。それがきっと、背が高くて素敵ね、だったらそのことを誇らしくおもったのかも知らないけれど、悪意に満ちたことばと捉えてしまった。裏返してみれば悔しくて嫌味をいったのかもしれないけれど、そんな憶測まで私にはわからない。

 

 

逆の妄想とマイナスの方向へその人がきっとそうおもってるに違いない、、とポツンとしてしまう。

 

それが個人的な経験だけじゃなく実は社会的なバインドだとしたら、、?と深くしずみこんでるときは頭の片隅にすら思わない。

 

 

のろいの言葉なんてとりかこまれるのはほんとう簡単で、そこにとらわれてると、え、わたしあなたのこと褒めてるよ?というのさえきこえてこない。

褒められてる言葉ももしや、嘘かも?と思う。

 

役にたたない人間だ、と思い込むのが特に得意な私は、役にたつにはどうしたらいいか?と考えてオーバーヒートしてしまう。

 

とりこまれる前にそこから逃げる。逃げるのもあり。

 

自分で自分の味方であると、のろいの前に自分の取りかこみを作るのもあり。

 

人によいものを祝福すること、喜びなさい、というのは私の防御なのかもしれない。

 

武井武雄の、イルフ(古い、の逆。つまり新しい)にならってイロノ(祝福)にしてしまえば、ヒトの傷つける言葉なんて表面的とケラケラわらえるかも。

林真理子も私を傷つける人は上流の人じゃない、って書いてたし。

 

悶々とした心の状態からのほうが気づきはおこると思うし。

 

友人の年賀には、ネイティブアメリカンの詩がかいてあった。最後にHO!って。

そんな感じ。ほ!!ってややこしい思いも声に出して祝福に変えていきたい。