かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

何度と重ねては欠けていくのだろう

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満ち満ちているものがときはなたれていく

のが満月であるのなら

欠けている

欠けきっている

そのみえない月は

満ちていくための

 

かけている

そして

また満ちていくとき

 

満ち満ちて

また欠けていくとき

 

幾度と重ねてはかけていくのだろう

 

重ねては

また

かけていく

 

欠けては

重ねていく

 

海もそのつど

かさをましてはひいていく

 

気持ちの波がかけては

ひいていく

 

。。。。。

新月にみたからか

満ち満ちている展示に

圧倒されて

帰ってきた日

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なにかを作っていく作業を完成

させることはなかなか私にできない

きっと完成させたものも

満ちと欠けを繰り返したのだろうが

。。。。。。。

言葉も

言葉を転がすだけで文にならない

情けない情けないと

欠けた心がいうのだけれど

 

 

ともうそれはただの文字ですら

物体でしかなく

石っころのように

蓄積されていく

 

世界の終わりも

わたしにとっては

どこか自分の痛みとは関係なくて

 

ただ

密やかに

水が細やかに通るくらいに

文字が積み重なっていく

 

水の摩擦で

その石ころすら

さらに欠けては

もしかすると

いつかは

大穴になり

大水を通すかもしれない

 

 

空っぽと思ってたけど

まほうのクレヨンのごとく

真っ白の画用紙が

空間になってるにすぎないのかも

書く

書く

書く

直耕

直耕

直耕

 

 

情けないと

欠けた心が叫ぼうが

今ひとつ水脈に近づけなかろうが

耕して耕して書いて書いて

石ころ感しかなかろうが

紙を折っては入れ物にしたり

未来の手紙にしたり

のを

やめてはいけない

 

よくかんがえてみれば

月の、完成せず

在るがままに

欠けては満ちを永遠に繰り返す 

そういうこと

 

 

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おちていく力

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こないだ友だちが

他の人が軽やかにみえて自分だけおちるているようにかんじるときってなにかをうみだすとき。みたいなことを言っていた。

理由なくおちるときは

多分そう。

まだまだだなぁと情けなくなるときとか完全に理由があるときでさえ、多分落ちることで

次を生み出す。

 

果実が落ちるとき、花が散っていくとき

次の実に繋がっていく。

 

風が運ぶような軽い種子もあるのだけれど

それでさえ

すっと、いつか静かにおちていく

「おちる」

ことは全然悪いことではないのでは。

 

大変だから落ちこみたくはないのだけれどかといって、ものの見事に軽いと、私は言葉もうまれない。

逆に土の中に潜ると沈黙してしまうのだけれど

それも待つ。

季節が巡ることは

そうやって芽吹いたり

芽を出すことの希望の繰り返しをかんじるからだ。

 

あたりまえのように

桜が咲くのをまち、散るのを美しいと感じ、冬の枯れ木のような状態も寒々しいと思いつつ、

その内実に大きなエネルギーを感じる。

 

 

春分を前に

世界がびっくりするほど

ストップしているけれど

これは大きくなにかを世界が

うみだす前の、前触れ

 

季節に日々にそのヒントを

感じる。

 

不安やおそれはただある、だけ。

おちていくことへのその先は

きっと豊かだ

 

 

#アークトゥルス

 

 

 

 

3.11

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あのときの感覚と似てる。

毎度というか今回はどうも

感覚がおかしい。

このご時世というのもあるけれど

 

三月の水を、汲みにいく。

いかなければ。

 

そういう設定にした。

 

Antonio Carlos jobin 

聴き慣れたメロディには

心象風景

枝もあれば小道もある

水たまりもあればうちひしがれた

空き缶もある

枯れ木とちかづいたら

そこには苔むしった緑色があり

 

どこにあるかざっくりとした地図を便りに

なかったらなかっただ、と

一本道を辿る。

 

再び生まれるのだ

死んだような気持ち

 

死んだような枯れ枝が

苔むしってくるように

 

水を求めていく

川のうまれる先端に

 

水は土の層を辿っておりてくる

湧いてくるその場所は

いくつもの

骸の層を通ってくる

再生のしずく

 

流されても流されても

無かったことにされても

命はそうやって隠れるように

隠されても葬られても

繋がっていく

 

 

 

 

 

 

 

糸をたどる

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いろんなことをごまかさずに隠さずに表す時代だ、行動する時代だという人がいて

そうはいっても、、、と

習慣としてどうしても霧に隠してしまう。

自分でもなにが私の意図なのかわからないときがある。

 

でも意図していく、表していくと本当に実現していくようだ。一部では実感している。

でも実現してほしいと思いつつ、怖い。

 

意図すれば叶う、なんていう

その魔法みたいなものは

自分の譲れない気持ちや本能の正体のエネルギーを

ごまかしながらも平和を保っているように

どこかでフラストレーションを感じながら

なんとかたまに叶う小さな実現で満足しようとしている。

 

この前ドワ、とでた怒りの感情は私の願いや大切にしていることへのサイレンだった。

(なかなか家族の前でしか出せないけれど。。)

 

たまたまというか、娘の小学校生活が昨日唐突に終わり、先生の最後の学級通信を読んだ。

 

この一年、先生は一度もこどもたちの前で叱ることがなかったのだそうだ。

 

 

また多分オリジナルの道徳の授業のプリントに

むかっと感じるとき、、、と空欄に

娘は、「自分の良いと思っていることを侮辱されたとき」と記入している。

そして

怒りを感じたら7秒数えよう、みたいなことが書いてあった。

余談だけれど

娘のクラスでは毎日のようにみんなが輪になって話す。

一度だけ参観でみせてもらったことがあるけれど、今日はこんな嫌なことがあった、いいことがあった、こんなことしてくれてありがとう。

(誕生日おめでとうのコーナーもある)とトーキングスティックみたいなぬいぐるみを持った人がはなす。その中で気持ちの共有や解決のアイデアがうまれていく。

 

 

なにか問題があったとき、表面的な感情に名前をつけて、でもほんとうはどういうことなのか、と言葉の意味を先生が教えてくれるねん。とその先生の言葉に耳を傾けているのか、いつもメモを持ってるときがあった。

いつのまにか嫌だな、っていうてたことも気持ちをスルーするチカラができたり。それは自分の感情を無視するということではないんだとおもう。

 

 

いちいち、毎日のように

その大切な部分をチェックするような時間をクラスでもっていたから「満たされない」ものからの

怒りのような感情がうまれなかったのかもしれない。

うまれたとしてもその感情と奥底の正体との親和性。

 

非暴力コミュニケーション。

その人の本来必要なニーズがわかるだけで

満たされることもあるような気がする。

 

 

なるほど、

怒りが出るのは、自分の価値観や大切なものが侵されるときで、

そこに気づくと怒りが無駄で終わらない。

怒るという行為は本能的だし、周りも本人も

あまり気持ちの良いものではないけれど 

それ自体は尊くて大切なものだと

 

感情の奥の私がみえたら

多分本能的な怒りのエネルギーも

ちゃんと包み込める、御していける力がわたしにもあるのだろう。

そこを信じるためにもいま蠢いている土の中の虫みたいにもぞもぞとしている小さな意図を

たぐいよせるにはいまいいときなのかもしれない。

 

そして糸はそのようにもわもわしているものから紡ぐものなのだ。

 

#NVC#糸#意図#啓蟄#strength#ディル

 

大きくしみわたってるようで一点のこと

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非暴力コミュニケーションに詳しい友だちが(ちゃんとこちらからきいてほしい、といわなくても予定が二か月も前から決まってる奇跡)

こないだの私自身の感情の取り扱いについて

いろいろな感情の名前をみながら

話をする。

先日あなたの内面にあるとおもうよ、

怒りが。

と別の友人に指摘されたものを浮上させたら

そういう感情が満ち満ちてきて

わあ、怒りしかないです。

と最初思ったのだけれど

しみわたってるその暴力的なほどの

面積の感情が

 

ぽたぽたとしずくとなっておちてくる

あなたの、それは〇〇ですか?

きかれるたびに

いいえ、とか

はい、とか

私の中の人と会話する。

 

そうだった、絶大的に自分の味方でいてね、と最初にこれ(非暴力コミュニケーション)を教えてくれた人はいってたっけ。

 

 

まさかの

わたしの名前をつけるとしたら

びっくりするような

感情が残った。

ほんとうに一点の、点のような

ものがほしくて

そこを拒否されたように

おもえたから

わたしの一点は、

(それがポジティブなものだったのに)

グッとマーブルインクのひとしずくのように

ぐるぐると混乱のもとに広がったのだ、

と分かった。

 

タイムマシンでその状況に戻ることはできないと思っていたけれど

不思議とわたしと、わたしのことだけであれば

戻ることができる。

あったことをなかったことにはできないけど

あああのときわたしは単純に「気楽さ」がほしかったのだな、とそのときの、がっかりして自分を否定したわたしに時空をこえてメッセージする。

 

ただしく怒りたいと思う反面、怒ってはいけないというわたしもいる。

 

家族にはなんだかいつも怒ってる、っていわれそうだけど、怒りってもしかしたら

ほんとうは表面的なものかもしれない。

そこを浮上させまいとするからほんとうの自分の感情がわからない。

わ、私怒ってる。とそことまず握手。

わ、わたしいま悲しんでるな、とそこと握手。

 

その下にはなにがひそんでるんだろう

あまりに認めてあげないと

どんどんその叫びのような感情はひろがっていく、気がする。

 

 

#キャラウェイ#ひめういきょう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かさぶた インク 土

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分厚いかさぶたがあると言われて
(ちさちゃんその中で怒ってるよ、ばーか、ばーかと言っている)といわれ

(なんもいってないのにそんなことがわかるのか!!)
怒りをとにかく身体の外に表明した方がいいとすすめられ、
誰にもみせない、いつものブログに下書きのままかいていたらわたしにも血は通ってて、かさぶたの下は皮膚じゃなくてまだなおってなくて
それはそれでまあまあな感じですが、


昨日そんな一日、借りた刺繍の本をみて久々に刺繍とやらをしたくなり
近くの店に刺繍糸と娘の服をみにいこうというたら矢先
娘、インクの瓶を全部、それも、キリムにぶちかますという惨劇。

でもなんかそんなことたいしたことなくてたいしたことあるけど

わたしを表してるようでもある。

買い物にいかずただいま絨毯をせめてもの状態に回復しようとしています。

もとには戻らない。

でも多分味にはなる。

まるでわたしの心のようではないか。


家族は多分、わたしがそんなこといったらこれ以上怒るのか、という感じだけどたぶんブレーキとアクセル同時に押すからか。

 

怒らないことが美徳としつけられた(とおもっている)のもあるし

多分感情が強い分、怒りを抑えるとどこかで他の感情がくすぶるというか。

なので怒ってきてすっきりするタイプの方とはそれ以来どこか怖いと思って距離置いてる

 

土ってすごいなあインクくらいなら汚染されない。怒りくらいでも汚染されない。

わたしは土でも水でもない。

血の通った人だから

笑ってごまかすかもやけど痛むのよ。汚れるのよ。

いまインクを水でたたきだすように出してる。

まあ残るやろうけど。

それもあり。

 

 

#オランダがらし