かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

霧の中に生きる

 

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いつだったか紙の余白さんという紙の研究されている方と話したとき

滋賀でも紙をすいておられる方が今でもおられるといっていたのだけれど

そこはうちからほんとうに近いところだった

まだそこには訪れたことはない

 

 

私が住んでいるところは山を切り崩していたったところで

さらに住宅街、ご多分にももれずどんどん桜の丘も切り崩され道にあった気に入っていた沼も埋められてコンクリートで蓋をされている

 

昔、琵琶湖というのは

あの大きい湖だけでなく小さな沼や池の点々が淡々とあるところというようなことを言うのをきいたことがあり

 

いろんなことでわたしもその仕組みを享受している恥を思いつつ消えていく沼や池がまるでわたしの何かも消えていくような気持ちになっている。

 

近くの山へ携帯電話を置いて何日かいままでしていた「旅」のようなものを息子がしにいっていた。

携帯はとても便利ででもその沼や池がなくなるような便利さが中毒のようになればなるほど

吐き気がしてくる。

SNSとか動画なんかはここ10年の話でそのスピードに自然でできているはずの私は埋没しては溺れそうになってる。

 

開発されて便利になってきた街の割に少し行けばこどもたちがお世話になった川や森がまだ

かろうじて

「開発」されずに残っている。そこだって

電波が届いてしまえば家にいるのと同じ。

 

でもまだ「蓋」されていない沼もある

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歩いて歩いて山の上までいく

この日は月に一度のアーチストデート

(アーチストの誰かとデートするという意味ではなく自分の中のアーチストとデートするという意味らしい。)

絵を描く友を誘って

谷沿いを登るルートがいいよといってきたばかりの息子に教えてもらったルートを歩く

 

 

蓋をしてはいけないんだと思う。

蓋をされてしまったら

蓋をしていないところを歩いた方がいい

 

霧くらいのささやかな

けれど無数のものが集まったらもやがかからくらいの存在感

 

でも密閉されてしまったらそれすらも閉じ込められてしまう。

昔の隙間風が通るくらいの蓋なら霧も立つのだろう

 

 

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たびすることば13

 

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iris
rainbow.
虹はくうに映るだけでなく
山肌にさえ透き通って
彩られることを知った昨日

虹の素はやはり光と
そして土からの何かなのだろうと
推測する
春に咲こうとしている
あのIrisも
そうやって
ひとの測り知れない
仕組みによってあの
冬に眺めた色をたずさえて
冬から春へ色を遂げる

花言葉は虹を伝える人
春にうまれたわたしも

あの冬の彩光をあびて
春にその輝きを
繋ぎ伝えようとするのだろう

たびすることば12

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Right/Light
for new world

右手(right )のしていることを左手に知らせるな

それくらい自分のしている「よき」ことは
わたし、ではなく
光に照らす
いかりも、ひかりに照らす

ただしさをひかりに照らす
い.は、かりものになり
ただしさは(right)はひかり(light)
の中で照らされる

あたらしい世界へ
光あれと世界ははじまった

 

12/21たびする言葉

たびすることば..15

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野原
.
野原=私の心
いてほしい草花や
眺めていたい風景
いつのまにか
雑然としてしまったり
よそからの種が
よいときもあるけど
いらないときは
すっと抜いてもいい
今日植えた球根も
少し場所が違うと思ったら
移植するとターシャも
いっていた

春を待つ喜びのために
今日球根を植えた

そうやっていま枯れた庭も
みにみえない先の春を

整えば整うほど
きっと野原はずっとずっと
ひろがっていく

誰のものでもない
わたしの、野原
たまには遊びに行くけれど
ご招待もするけれど
あくまでここは
わたしの庭

 

、、、、、

15/21たびすることば

 

感じて染める

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もう私の子どもの頃、

親は味噌を作るなんてことはしてなくて

祖母が作ってたりしていたのをぼんやり覚えているだけ

 

自分で家のことをしはじめたときに

近所に住んでいた今はなき友が作ろうよと

教えてくれた

あの時の麹はどうだったんだろうか

記憶はないけれど

大豆も炊いて、麹と塩を混ぜるんだ、

それだけ!なんだと驚く。

寝かせた、手前味噌はびっくりするほど美味しくて不器用ながらも

自らの手でできることを少しだけ取り戻した

 

いつのまにか味噌はつくりはじめてもうかれこれ20年以上たってしまってる

お味噌づくり教えてよ、と言ってくる友達が後から後から続いて

何年かそういうことをした時もあったし

園で働いてた時はそれをしていこうと思ってやってたりした

こどもたちが一緒にまぜる

手にはいろんな菌があって

酵素ジュースを作るときも自分の手をいれて混ぜようと教えてもらった。

 

本には作り方は書いてある

でもどんなかんじ?と一緒に作ることって大切なのかも。

お茶づくりをしたときも

その人の手でいかにもこんなにお茶の味がかわるのか、とびっくりする。

 

私は自分の手に自信がないけれど

自信なんてなくてもきっとその場に共にいる人たちとのなんと言えない 繋がりの中で

菌もいい意味で感染していく。

 

感染という言葉が

いまのタイミング的にも

あまりいいイメージがないけれど

よくみてみると

なんて素敵な言葉!

感じて染めていく

 

 

 

最近、味噌づくりは一人で体調の良い時におもいつきでしか作らないけど、お醤油だったり、お茶づくりだったりはなかなか自分だけではできないからそういう場に

赴いていろんな人たちそして多分菌たちとも出会ってたり。

あったときの刺激もありまた久しぶりの懐かしさもある

そんな、なにかがうまく感染して

 

菌を通じて面白い交流がうまれる

 

今年の味噌はしないかもだけど

もやしを買って麹を作るときもある

そんな時のは夜な夜なお布団にいれて

まさしく抱きしめてみる

私の菌が、のちに私の体内に入ってくれる

再会。

 

いつからか続くその菌がお米とであってどんなふうになっていくのか

 

自分の中での変容と、

また外にでていくときの変容がいろいろと

楽しみ。

 

私の種まきが他の人への収穫に繋がったり、体内に入ったり

連綿とつながっていったりするのだ、と大豆を焚きながら夜な夜な考えている。

 

 

涙壺

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「涙の谷を歩むことがあっても
わたしは怖れない
あなたがともにおられるから」

.

涙壺をもった神が
私の横にいる
悲しみに暮れた涙は蒸発しているんじゃない

ちゃんとそのつど
壺の中にためられている
種がまかれるとき
かつてのわたしが埋葬されたところに
涙壺から滴がおちる

ジャングルのように
混乱している
美しいものも
やくにたつものも
あるはずのものが
ごちゃごちゃの中で
埋没している

風の通り道ができるほどに
草木が
あああれも
これも、ときられて
ようやくわたしにも
地面があることがわかった。

シンプルにシンプルに
必要なものは
そう多くない

#psalm23#godshut#teasbottle #poet#inspiration#poeticinspiration
#herb#simples#garden

 

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とどけられた一枚

 

 

この秋に友だちである、あつこちゃん、みるまにと、宮古島の織作家石嶺かおりさんの個展のときにできた詩を

歌にしたいとおもいながらできないままでいました。

 

油断するとわたしは「岩倉」に埋没してしまう。

背中を最近押してもらうことがたくさんある。

でてきなさい、でてきなさい。と言葉も

 

先日の劇団トルの舞台でもわたしの中では美しい衣、布に目がいったけれど

みるまにの目に止まった衣装も青いツーピースに

羽がはえていて

きるとほんとうにとんでいけそうな

深い青に映えた白と優しい色たちが重なっていた。

 

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(みるまにの衣装。ピースフラッグもつけてみた)

あたらしい歌をうたうんだよ!というのは

わたしの心の奥底にあったらしく

そういうのをみるまにがちょっと前によみとって伝えにきてくれた。

そしてあの衣装をきてうたってみようよ?とまでいってくれて。

 

 

なのに怠け心と情けない心よ、

きっと彼女は忘れてるだろうとスルーしようとおもったら

ちゃんとマーケットtreeの日に届けてくれて

今年最後のライブでうたうんだよ!と。

はてさて。

Liveは1週間後。

まさしく

うみのくるしみ。

 

 

詩はできている。コード進行もできている。曲にする言葉のカタチが降りてこない。

今回は劇団トルのキャラメルもみたことと、中村哲さんの死もあり

押し出されるものと、そんなこととが絡まりあって産道から出てこない。

 

のほほんと「岩倉」のなかでぬくぬくとすごしていると遠いアフガニスタンのことは想像できない。まわりの心を通わせている人たちが中村さんの死に対して思いを寄せている。

 

みるまにのときに司会をしてくださっていた蒔田さんがピースフラッグの旗をもって

お葬式にいかれたそうだ。

アフガニスタンまでの分骨は

その青い布に包まれてとどけられたそうだ。

 

まさしくわたしにとどけられた衣もブルー

 

そんなことにはまったく気づかずにうんうんうなりながら

ようやくなんとかできて

(とりあえず)

向かった先はふるほんマルシェ

 

詩のタイトルはとどけられた布だったけれど

違うよね、とずっと感じていた。

 

ふるほんマルシェでは

栞本をもっていくとマルシェの金券がもらえるというシステムがあるそうで、

自分の好きなページに栞を挟んでそのことについて書いたりして手にとった人とその本を繋ぐ助けをする。

 

Live当日、本来の栞の意味を思い出し、これなのかも、と思った。

 

栞は漢字をみるとわかるけれど、

まさに木に布がひっかかっている、干されている様子。

山に登ると遭難防止の目印にある小さな布が栞の語源ときいたことがある。

 

ちいさなマーケットのtreeに青い衣装を持ってきたことも符号すぎて静かにびっくりした。

、、、、、

新しい曲は聴きそびれたけど、、といいながらもう一つのわたしの曲「ちいさなともしび」という曲をきいて友が絵を描いたのを見せてくれた。(一番上の絵)

 

そこには大きな宇宙の本があって無数のちいさなともしびがある、ようにみえた。

 

ともしびは栞にもおきかえられる。

 

そのひと、そのひとにとっての

「ここ!」という場所に栞が無数に挟まれていてそれが夜空のように星がまたたいている。

 

 

昨日、ある学校のクリスマス劇を観に行くと、

何十人もの中学生がろうそくを灯して賛美歌を歌ってくれた。おおきな光ではなく

ちいさな光が無数にあることの美しさとちからづよさ。

 

 

 

キリストが人々のために天に住まいをつくりにうまれてきたその場所は王座どころか、人知れず場所すらないような粗末なところで

けれど星は隙間だらけの中で無数にかがやいていたのだろう

(厩は本来は、岩倉だったという説もある)

 

中村さんのこともおもいながら今日は教会でひさびさに賛美歌を歌いたいと思ってる。