こないだ友だちが
他の人が軽やかにみえて自分だけおちるているようにかんじるときってなにかをうみだすとき。みたいなことを言っていた。
理由なくおちるときは
多分そう。
まだまだだなぁと情けなくなるときとか完全に理由があるときでさえ、多分落ちることで
次を生み出す。
果実が落ちるとき、花が散っていくとき
次の実に繋がっていく。
風が運ぶような軽い種子もあるのだけれど
それでさえ
すっと、いつか静かにおちていく
「おちる」
ことは全然悪いことではないのでは。
大変だから落ちこみたくはないのだけれどかといって、ものの見事に軽いと、私は言葉もうまれない。
逆に土の中に潜ると沈黙してしまうのだけれど
それも待つ。
季節が巡ることは
そうやって芽吹いたり
芽を出すことの希望の繰り返しをかんじるからだ。
あたりまえのように
桜が咲くのをまち、散るのを美しいと感じ、冬の枯れ木のような状態も寒々しいと思いつつ、
その内実に大きなエネルギーを感じる。
春分を前に
世界がびっくりするほど
ストップしているけれど
これは大きくなにかを世界が
うみだす前の、前触れ
季節に日々にそのヒントを
感じる。
不安やおそれはただある、だけ。
おちていくことへのその先は
きっと豊かだ