かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

遠くの方でちかりと、灯り

今日用事の途中で立ち寄った雑木林、河川敷近くに植えた林のようで、森の中の小道には小枝がひいてある。歩いてみる。

 

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(写真はいつかの夏の焚き火。焚き火もいいです)

今年は園のスタッフを夏からお休みしていて

秋の、というか一年で一番私が楽しみにしている行事ちょうちんまつりも参加しなかったけれど、こどもたちと先生がちょうちんを作って、その中に蜜蝋ろうそくを入れて(これも蜜蝋に紐を何度も垂らしながらつくる)灯しながら歩く

 

今朝通った道はちょうちんまつりにとてもよい小道だなぁ、と思いながら

暗闇の深さについて考えてみる。

以前園のあった場所には鎮守の森があって、あたりは住宅も少なく

ほんとうに闇だった。

 

間隔をあけて歩くちょうちんウォークに、遠くの方に、あ、あそこにも灯りが、その奥にも灯りがとみながら

照らせ照らせと歌いながら歩く

 

道路拡張のための移転であったが、その「暗闇」を体験するためにはもうギリギリだったのではないか。

 

こないだ以前の園の辺りを日が暮れてから通ると

こうこうと明かりがついている。

鎮守の森だけがかろうじてあるものの森の中に入ったって電気の灯りはもれるだろう。

 

明るさの中にはあの美しいちょうちんのともしびはかき消されてしまう

 

ほんとうに大切な光の体験は暗闇の中でこそなのだ。

 

明るい世の中でかき消されること

大騒ぎの中にかき消されること

 

静かに薄暗くしてただ一つろうそくを灯すことはどんなにか人にとって豊かなことか。

 

 

 

 

 

自分の中の無力という強大な力

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調子が悪いと無力だという情けない気持ちによくなる。

この無力というのは一体なんなのかといつも悩まされる

あれができるこれができる 、わたしは自分にできることを数えたい。

自分のできる術を増やしたい。

そして「できる」愛あふれる人がたくさんいるなかで、弱っているとそういう、無力だ、、という言葉にさいなまれる

だから出来るオンナにすごく憧れる。

それはそれでよいのだと思うけれど

その、無力という言葉の私のイメージは相当わたしにダメージを与える時がある

 

しかしさて無力とは。

 

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最近の気づき

 

無力なことはエネルギーがないことではない

無力な存在だと思っている存在にフォーカスするとそれはうまれたてのあかちゃんだったりする

自分自身でまだ立つことも歩くこともできない。ごはんも食べられない。

けれどうまれてきたその瞬間のよろこびや

ただ在ることへの、周りのかつてそうだった人たちが感動する

 

うまれたときは0地点だと思う。そこから1、2、とすすんでいく。

 

当たり前のその0歳が

わたしには、ものすごく大きなメッセージ

力が無いことは、ゼロで在ることは

わたしが思うゼロではなかった

無力ではなかった

誰もがその一喜一憂に、存在顔が緩む存在

完全な存在は無力という名前の大きなエネルギー

 

こないだ助産師さんの話で

いま医療が発達してて、赤ちゃんは、病院でしかうまれてこないと思ってる人がいるけれど本来、赤ちゃんには産まれる力が、

お母さんにはうむ力があると、話ておられた。

 

私は医療技術が必要な状況の中にあったけれど、うまれた時の状況をみればそれはまさしく医療の中にあっても、

うまれる力があったと思う。

 

無力という名前の困惑した言葉は

エネルギーを添えると壮大なエネルギーを含ものになる

ゼロという数字の概念にも

まさに穴のようなそこを満たしていくものが最初にあったそうだ。

 

ゼロである

満たす力を持っている無力な存在

 

ゼロになるために強力な力を帯びて

ただそこに在るだけで周りをもゼロの波に

(ゼロ、だから波立つものはないはずなのに)

凪という言葉が愛される(少なくとも私は)

のはそういうことを本能的に感じるからかも。

 

凪のとき船は動かない

ただ浮いている

 

そこに力が無いと言えばそうだけれど

休息する、なにかを待つちからがそこに存在する。

 

そしてちいさな大きな存在な赤ちゃんは私に教えてくれる

 

無力と思うときの私の自己憐憫

こうも、尊いものに変わるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなものは愛じゃない

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ここのところ

愛があふれてるなあ、って思うことがたくさんある中で

そうじゃないものをみてしまうことがある 

 

 

一見あったかいような、心を開いてるような

キャッチーだったり。でもそんなものには騙されないカナリアな人は、その欺瞞に怒りふるえる。

 

よかれと思ってしたことも

相手の予想外の反応に唖然とする

ある時友達は

アドバイスは要らないと

いった。

 

そんなことはわかってる そんなことはわかってる!と

 

その人の話をきき、何かを言おうと言葉を絞った挙句のそれ。

私も唖然としたけれど、ほんとうにそんなものは要らないんだ。

 

ぐっといろんな気持ちが混在する中で

でもわたしはあなたが好き、って伝えたら

全部じゃないけどなにかがとけた。

 

アドバイスなんて要らなかった

それは愛でもなんでもなかった

 

(一応、愛のつもりだったけど)

 

本質的にそれが愛、になることもあるけど。

話しを聞いてほしいという人がいる。

わたしは一生懸命きくよ。

 

でもわたしが何か言おうとすると反発する

アドバイスみたいなきのきいたことは

そもそもできないはずなのに

その人の得たい「愛」みたいなものを

渡せない、って無意識になってしまってるとき

わたしはアドバイスみたいな無意味なことをしてしまうのか。

 

ただきき、ながせばいいのに

こちらのほうから何かをわたそうとして、

わたせきれなくなって縁遠くなってしまった人もいる

 

 

、、、

 

そんな個々の人間関係が「くに」とか地域とか、何かの団体になっていくとき

いかにスムーズにでいかにカッコよくクールで。って。

 

いいことしてもらってる。

便利になったこと。

コストカット、容量の良さ

 

ちょっとまって。

 

 

いかに効率が悪く

いかにカッコ悪く 

いかに普通じゃないもの

 

 

レールにのりきれなくても

違う道を掘りながら歩く羽目になっても

そこにわたしのエネルギー源があるなら

愛があるなら

 

消化不良な思考回路のまま晩秋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漂流からの祝福

 

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宇宙

そこに「わたし」が浮かんでいる  

私の前にも後ろにも美しさがあり

過去にも未来にも美しさがある

 

美しさという名前の宇宙に

ぽっかりと浮かんでいる

 

何かを意図して着地していたはずが

けれどまたいつのまにか

わたしは意図を見失って漂流

自分の術ははどこにあるのか

 

0ポイント!

コマすら進まない。

 

漂流者は無力だ、とただようわたしは

思う。

 

意図すれば着地できると、

母親の胎内で

糸のようなものに結ばれて

ひたすらただよう

 

そうだ

命綱のようなその糸から離れてまだ

わたしはその余韻に浸っている。

糸が切られてもわたしはまだ糸と繋がっている

 

 

いや忘れていた意図を思い出すだけ

そうすれば

安心してただよいまた役に立つわたしにもなれるし、

無力な存在にもなれる

無力とは力がないということではないという ことだと教えてもらう

 

実際にうまれてきたときの私が

かつて美しさの中にいたということに

いま気がつく

 

無力である

満ちた存在

 

無力か無力でないかと、役に立つ術があるかないかとは関係がない

そこになにか光をみいだすかみいださないか。

エネルギーを感じるか感じないか。

 

いままでのように

無力だと感じたときは

あらためて

また意図を確認しよう。

たどってきた糸を。

 

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そうまさにtracing the root わたしのルーツも辿る。

 

(記憶の喪失からの回復)

 

0ポイントと思ったそのときこそ、わたしは一番に祝福されてる

birthday point

 

うまれてくる力、生きていく力を授かって

 

 

 

 

ちいさな水たまり

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いまでもよく覚えてる、娘が小さかったとき

極寒の2月に水たまりに入りたがってびしょびしょになったことを

興味があったら

そこに入ることがどういうことか考えない

おこられるかも?とか風邪ひくかも?とか

なんのジャッジもなく入る。

 

長靴ですらなかったのかもしれないけれど

長靴であってもたぶんもう靴の中が水溜りにになってる

 

海に足をつけることには躊躇した子が 水たまりにはおもいきり入った記憶。

 

わたし自身のそのころのわくわくを思い出そうとするとようちえんくらいに遡る。

わざと園の帰り道じゃぼじゃぼ入りながら帰る。

おかあさんは帰ってきたらどう思ったんだろう。

でもその中にいるときは

そんな先のことは考えない。

やっぱり靴の中も水たまりになっていく。

 

そうかそのものになっていきたいんだ

こどもは

すなまみれになったり 

ぐしゅぬれになったり

手でさわって 足で感じて

そのものを見たい。

 

わざわざ大人になったら近場じゃなくて大自然の中に身を投じたり

何処か遠くへ想いを馳せて現実から逃げたりするけれど

 

歩いていけるところでちいさな子はあたらしい体験を

本質を感じる

遠くの山行きたい山行きたいとぼやいてたわたしやったけど今日友のために庭の花を摘んだら

なんだか気がすんでしまった。

 

気がすむ。

って気が澄むなのかも

と思うほどちいさな水たまりに、はいったこどものわたしが満たされたかったところが満たされたようなそんな感覚

 

 

どんなにちいさな器でも満たされなかったから溢れないんですよ、と中学生の言葉にハッとする。

何か大きく大きくと思って虚しくなるよりも

いまある器にちょっとでも水をみたしたり

というか水たまりに入るみたいにじゃぶじゃぶしてみよう。

ヒトはヒト、ワタシはワタシ。

「水たまり」を全身でまた感じたい。

 

#hoppipola

アイスランド語で水たまりにジャンプする

 

 

 

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意を乗せた布

 

刺繍作家みるまにのあつこちゃんがいつのまにか宮古上布にも糸を刺繍しているという。

 

染織は若いときから惹かれつつも少し遠い存在

 

でも心ひかれる。単純にすき、っていうことだけじゃなくてそこに私が惹かれるのはいったいなんなんだろうと思い巡っている。

 

もしかしたらそんなことをすら考えずに作家のおふたりは一心不乱にさし続けたり、織りつづけたりしておられるのだろうか。

 

 

 

あっちゃんのパートナーたろうちゃんも会ったときから才能ほとばしる感じで、いつのまにかウクレレを片手に歌うたいになっていた。

誰も真似することのできない唯一無二の歌

そんなご夫婦に縁をもらって作品展とお話会で私も歌わせてもらいました。

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11歳だった少年の頃の

戦争体験を話す村上敏明さん。

 

宮古島で織作家をする石嶺香織さんは自衛隊基地ができることに反対して議員にまでなった。まだ乳飲み子をかかえるお母さんでもある。

 

標的の島、という映画にも登場する方。

 

たんたんと話す朗らかな村上さんの話は我が子の年齢と重なってリアルに考えるとどうしようもなくなる。

 

芙蓉の花(ぜひ、村上さんの体験も、歌もきいてみてください)という村上さんの体験をたろうちゃんと、中村あゆみちゃんが歌にしたもの。

明るいメロディラインとやわらかな言葉、けれど村上さんのことをきいてからだと泣かずにはいられない。

ここで書いているととても陳腐な言い方しかできないのだけれど、そのあとで小さな子を抱きながら話す石嶺さんの話が、いま、いま、いまだよと、私の心につきささる。

前に立って話していると凛として存在感のある美しい女性、という感じなのだけれど、会が終わって話すと、いたって普通のお母さん。彼女のパワーはどこからくるのだろうと思いました。

 

 

 

 

こういう運動や活動をしている友人知人は多いけれど、私はそういうところに行くと自分の無知や行動力のなさにいたたまれなくなる、、。

歌ってほしいと言われたけど、私なんかがいっていいのか?と直前まで思ったり。

 

 

しかしながら村上さんにしても、

石嶺さんも「活動」したいからしてる、というよりもそれを上回る突き動かされるものがあるのだと思う。

 

村上さんは何十年もしまいこんだ少年のきびしいつらい思い出を沈黙をやぶって話し出したのは今の日本のあまりにもの状況を危惧してからだし、

石嶺さんも織をしたくて移り住んだ宮古島でどうにかしたいと思った末の行動。

それなのに議員時代2年間は織はほとんどできなかったそうだ。

そしていまこそ現地の運動にいかないとという状況なのにいろんなことからそうできない時のジレンマや罪悪感。

 

 

 

次元は違うかもだけど

私はこないだの参議院選挙のとき、ひとつきめたことがあった。

ひるまないこと。

自分の無知に、できていることの少なさに、

自分の動きや思考をとめてしまわないこと。

 

行動を起こせてないときの罪悪感。

(なんなんですか、その罪悪感!といつも思う。)

 

そもそも個人個人の生活の中に

戦争や戦争に関することが入ってくる違和感。

「個人史がおかされている」

そういう表現。

 

、、、、、、

 

作品展の前にあつこちゃんのことを考えていたらひとつの詩が浮かんで、少し前に日記にもあげたけど

またここにかいてみる。

 

 

 

、、、、、

 

 

届けられた一枚

木がその布をつかまえる

うごきのある風と

動かない木の対話

 


わたしからうまれた布を風がとどけてくれた

と木がとどまることのない風に口ずさむ

 


天から刺す無数の光

わたしの手が横へ横へと

光から光へと渡していく

 


言葉のない語り

土からきこえる叫び

 


だれかのかなしみや

だれかの怒りが

 


土を通して浄化されていく

 


声が届かぬのなら

風は木を通して届けようとする

光は、刺す方向で人に気づかせようとする

 


ああいま

いつのまにかとどいた一枚

 


わたしの前に

光が刺す方向に

わたし糸を通そう

 


声なき声を光の刺す方へ

言葉で届かぬなら心に届くよう

 


虹のように光の色をつかまえる

 

、、、、、、、

 

「とどけられた一枚」

というフレーズが私から離れない。

 

 

ひとりひとりにとどけられた一枚があるんだ。

その大きさを人間は比較したりして

ちいさいとか、おおきいとか言うけれど

 

神さまからしたらそんなことはたいしたことではなくて

その布をどうやってつかうか、その、だれかの、意をのせた布がどんなふうに飾られるか

どんなふうに大地を再生するように

つくられていくか

(祈りは意乗りともいう)

 

自分で動いている、と思っているようで実は何かにつきうごかされてるものがある。

だから自分が何をしたいか、どうしようかという思いが、びっくりするほど小さくてもそれはたいせつにしたいと思うし、

それぞれの光を大切にしたい

 

 

自然布というのは、草の茎や綿から作られる。

羊毛や絹も動物のものとはいえ、生きているものがいのちあるものにたすけられてまとう布。

 

私は紡いだり、時折染めたりするのも好きだけれど、いのちがただ茎だったものから、色や糸にと変わっていくそのさまに力を得るからなのだと思う。

 

布をつくる人は布になる植物、もしかしたら精霊のようなものにメッセージや力を託されてるのかもしれない。

 

帰り際、少しだけ石嶺さんと話したら志村ふくみさんの話も出てきた。私自身も憧れる人。

からくりからくさ(梨木夏歩さんの織の本)もよまれたとか。

 

 

 

布を織ることは、いのちがいのちへと移っていくことを深く感じる。

 

写真ではなくどうぞ直接ご覧になることをおすすめします。

 

台風が無事にすぎさることを祈りつつ

この連休、京都安楽寺で沖縄展があり、そこでもまた展示があるそうです

 

 

 

 

 

 

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(この秋最初に茶の花が咲いた日)

 

 

花をそなえたりすること。

 

お墓参りや、命日と、花をそなえたりお参りに行ったり。

 

秋になると金木犀が香りだし、萩も遅まきながら今年咲きだしたり

 

夏の暑さのせいにして庭のていれをしてなかった

雑草たちを整理するといけたい花があらわれてくる

たくさん種類はないけれど

秋明菊もさきだしたり春とはまた違う静かなわくわくと共に秋をむかえる

 

そうやって意識を秋にむけだすと

父親の命日を迎える

 

 

たまたまなのかもしれないけれど

そこがわたしの喜びとつながっていく

 

供養、供養と言うけれどまずは自分を供養することですよ、だれかに言われた。

自分のために花を生ける

お茶をいれる

(最近は忘却甚だしく、誰に言われたか忘れる。いや言った本人もこういう

たぐいのことは忘れるかもしれない。)

父との確執ゆえに長いこと父の供養的な感覚に抵抗があったけれど、結局そうはいってもそれは自分にかえってくる。

 

土から離してまたいけると、生きだす草花は

まるでわたしが生きるよう。

 

そなえられた、人や空間、そしていけた本人も

生かされていく。

 

大切なことはとても身近で、シンプル。