調子が悪いと無力だという情けない気持ちによくなる。
この無力というのは一体なんなのかといつも悩まされる
あれができるこれができる 、わたしは自分にできることを数えたい。
自分のできる術を増やしたい。
そして「できる」愛あふれる人がたくさんいるなかで、弱っているとそういう、無力だ、、という言葉にさいなまれる
だから出来るオンナにすごく憧れる。
それはそれでよいのだと思うけれど
その、無力という言葉の私のイメージは相当わたしにダメージを与える時がある
しかしさて無力とは。
最近の気づき
無力なことはエネルギーがないことではない
無力な存在だと思っている存在にフォーカスするとそれはうまれたてのあかちゃんだったりする
自分自身でまだ立つことも歩くこともできない。ごはんも食べられない。
けれどうまれてきたその瞬間のよろこびや
ただ在ることへの、周りのかつてそうだった人たちが感動する
うまれたときは0地点だと思う。そこから1、2、とすすんでいく。
当たり前のその0歳が
わたしには、ものすごく大きなメッセージ
力が無いことは、ゼロで在ることは
わたしが思うゼロではなかった
無力ではなかった
誰もがその一喜一憂に、存在顔が緩む存在
完全な存在は無力という名前の大きなエネルギー
こないだ助産師さんの話で
いま医療が発達してて、赤ちゃんは、病院でしかうまれてこないと思ってる人がいるけれど本来、赤ちゃんには産まれる力が、
お母さんにはうむ力があると、話ておられた。
私は医療技術が必要な状況の中にあったけれど、うまれた時の状況をみればそれはまさしく医療の中にあっても、
うまれる力があったと思う。
無力という名前の困惑した言葉は
エネルギーを添えると壮大なエネルギーを含ものになる
ゼロという数字の概念にも
まさに穴のようなそこを満たしていくものが最初にあったそうだ。
ゼロである
満たす力を持っている無力な存在
ゼロになるために強力な力を帯びて
ただそこに在るだけで周りをもゼロの波に
(ゼロ、だから波立つものはないはずなのに)
凪という言葉が愛される(少なくとも私は)
のはそういうことを本能的に感じるからかも。
凪のとき船は動かない
ただ浮いている
そこに力が無いと言えばそうだけれど
休息する、なにかを待つちからがそこに存在する。
そしてちいさな大きな存在な赤ちゃんは私に教えてくれる
無力と思うときの私の自己憐憫は
こうも、尊いものに変わるのか。