かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

とどけられた布

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届けられた一枚

木がその布をつかまえる

うごきのある風と

動かない木の対話

 


わたしからうまれた布を風がとどけてくれた

と木がとどまることのない風に口ずさむ

 


天から刺す縦糸のような無数の光

わたしの手が横へ横へと

光から光へと渡していく

 


言葉のない語り

土からきこえる叫び

 


だれかのかなしみや

だれかの怒りが

 


大地を通して浄化されていく

 


声が届かぬのなら

風は木を通して届けようとする

光は、そのさす方向で人に気づかせようとする

 


ああいま

いつのまにかとどいた一枚

 


わたしの前にある

 

光が刺す方向に

糸をを通そう

 


声なき声を光の刺す方へ

言葉で届かぬなら心に届くよう

 


虹のように光の色をつかまえる

my policy

 

 

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大したことじゃないけれど、あることで、お誘いが私には来ない、ということがありました。

そこにはどういう理由があるのかは、その本人にきかないとわからないけれど、

何人かには誘われてて、私には来ないということってまあたまにあります

 

そこでわたしは、わたしには誘われるにふさわしい能力?がないからだ、とか

自虐というか、その罠に陥らないようにしようとはするもののいい気持ちはしていなかった矢先、

 

ところがたまたま誘われた人の方は、誘われた方で、私が誘われなかった理由として、そんな誘いにはのらない芯があるような、

逆に誘われた方はふわふわとそれにのってくれるようにみえると思ったんじゃないか??

とその人はその人で自虐的になってる

 

だから誘ってみた本人にしてみればもしかしたら直感だけだったり、たまたまだったりするんだけど、

そこに結構、自分のなにかを結びつけようとしてしまうことってあるんです。

 

抽象的な事例ではあるけれど、

なるほど、人には根っこにそれぞれの信じている、信じてしまっているものがあるのだ、と気がつきました

 

 

その流れで話していて、

よく憲章だとか、policyだとかってあるよね、

と話していて、そういうの1人1人作るといいよね。と話してた。

じぶんの無意識の信条があまりに自分をたいせつにできてないと、そこに流される。

だから意識上にじぶんのpolicyをかがける

 

よく教会の前にいくと聖書の言葉が掲げてある。

お寺の掲示板でも

 

こないだ草津ファーマーズマーケットに行ってもpolicyがかいてあったっけ。

 

 

 

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何年も何年も人がその信条をかかげて信じようとするのには、

行動や無意識に自動的にネガティブシンキングにフォーカスしてしまうからかも、、(私の場合)もしくは、あらぬ方向に流されてしまうから。

逆にそこの自分軸がしっかりとたいせつにされていると、多分そこに立ち帰れる。

 

憲法を改正する、しないでも論争になるけれど、やはりその言葉のひとつひとつに

実際の生活や社会が出来ていくと思うと自分ごとにしていかないと、と思う。

 

やっぱり日本にすんでいる限り憲法も勉強したいし、改めて自分の「憲章」を洗い出したり、曖昧になっている部分を言語化してみるのもありなのかも。。

 

 

月のない夜に

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ちょうどこないだの満月に叔母が天に召されました

 

 

釈萩月という戒名

 

萩の花は、母たち姉妹にとって特別な花です。

 

 

私は山籠り、

ちょうどペルセウス流星群もみた夜、

こんなにも夜空をみあげることが普段よりも多かった直後に、

叔母のお通夜で

お坊さんのこんな話を聴くことができました

 

月はいつも一人一人平等に輝いてる。

それは当たり前に知っていることのはずだけれど、ふとみあげればその恵みにあらためて感じいる、、ような、、、※

 

あれから少し経ってちょうど新月の夜にキャンプをしました。

新月

いま空をみあげても地球からは月はみえない。

でも何故かこないだの満月のときよりも月のことをしっとりと感じる。秋の虫の声や、ギターの音と。

 

当たり前にある恵みが当たり前に見えるときよりもみえにくい時のほうが実はそこに、恵みはある、ような気持ちになりました。

 

これから萩が徐々に咲いていきます。

 

通夜の後、叔母のお友達がお茶碗をもって

こられた方にお茶をたててくださり、私はお運びをさせてもらいました

 

その方が、「あれもう一つお茶碗が足りない」というと叔母の娘である、従兄弟が「お母さんの好きな蝶々のお茶碗で最後のませたまま置いてきてしまった、、」と。

 

たまたま翌日、全く別の場所でお茶をいただいたときのお茶碗が蝶々柄

 

 

叔母からのお手紙でした

萩の花と蝶々

 

 

※月影のいたらぬ里のなけれどもながむる人の心にぞすむ   法然上人

 

 

 

 

 

山籠り かがみ

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こないだハワイの方とお話ししたと書きました。

ハワイといえば、ホオポノポノだなぁ、とぼんやり考えていました

 

 

この世の中では感情を揺るがす事象が近くでも遠くでもおこる

同じ現象であっても揺るがされることと揺るがされないことがある

 

それはいいことも悪いこともなく、です。

一見いいことにだけ感謝したり

悪いことにだけ謝ったりする、それは当たり前のようなのだけど、

はたしてそうなんだろうか。ということをオポノポノのことを知ったとき思いました。

 

わたしという物体を通して言葉を通す。

言葉の気流みたいなものが

おこった出来事に対して発する言葉でそこに感情があるなしになにかが変化していく

 

断食中は大事件などおこらず一見平和に

友や停泊してる人との交流のだけのはずなのに

あのハワイときにおしよせてきたような感情がおとずれてきて、しかもそれは相手が悪いわけでももちろんわたしが悪いわけでもなく

瞬間瞬間で落ちたりまた感謝がわきおこったり

 

ほっておくとどんどんだめなほうにいってしまうのだけれど、わたしの目の前におこってる(と感じてること)はわたしの今をあらわしている、と

少し俯瞰してみると、、美しさは感謝だし、美しくないと思ったものも、「私は美しさを選択する」というアファメーションにかわる。

 

噂話の誘惑は、

よいこともわるいことも、私不在。

 

 

居ない人の話をすること、、、

いい話ならいいように思うけど、そこに

対話してる私とあなたは居ないので

たまにわたしは寂しくなる

 

でもそれですら、

話をしてる相手や、またそれを感じとるヒントとして私という存在が

次へもっていく装置になるのかも。

 

うまく言葉にできないけど

どうも微小のその感覚はアンテナであって

自己否定の材料にはならない、ということにはたと気がついたのです。

 

こないだあったハワイの方が人にはそれぞれうたがあるといっていた意味もなんとなくさらに腑に落ちて、ちいさな詩も書きました。

 

、、、、、、、

 

 

かがみ

 


みるものすべてはかみさまからの

しるし

いまわたしなにをかんじてる

いまわたしなにをみてる

理由がわからない

かなしみもさみしさも

理由のわかる

くるしみも

ひとのよろこびも

そらのかがやきも

すべてすべて

わたしをあらわす

わたしをみちびく

かがみであるなら

ちゃんとそれを

うつしだそう

絵を描くことができなくても

心を映すカメラはなくても

はっきりと言葉にできなくても

ちゃんと心の鏡はうつしだしてくれてる

 


とどまる景色はなにひとつなく

風は雲を悠々と時に激しく流していく

そこにわたしは居るだけ

流される時もあれば、

木のように大地にしっかりねざしてる時も

流れていく感情や、

時には大雨が降る時もある

それはやがてかわくほどに陽はのぼり

また鎮静の時を迎える。

くりかえしくりかえしのリズム

1日

季節

の中にも

決して同じ日はない

流れていく感情も

流れていく空の様子も

かがみ

わたしをあらわしている

 


出会うひととの交流も

感情もわたしへのメッセージ

 


でもあまりにその「天候」がめまぐるしいと

幕屋にはいってしまうこともある

それもわたし

 


嵐を待つ

心の嵐を思う存分静けさの中で味わうのも悪くない

 


ただおこる事象はすべてかがみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

、、、、、、

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山籠り

 

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同じ干支の、年齢は一回り違う友に誘われたときこれは行かないといけない。というインスピレーションが来ました。いわゆる直感というやつです。

そしてその場所は奇しくも友と同じ干支である寅がまつられている山。

 

そこはラグジュアリーなファスティングセンターみたいなところではなく昔きっと流行った道場のようなところで、多分1人だったらいけなかったんじゃないだろうか?というところでした。

断食はしたことはあります。

だからそのハードさと爽快感は記憶ありながらも

長い期間はしたことないし、はてどうしようかと思いましたが、友もいることだしと行ってきました。

いわゆる普通の旅行前のうきうきはありません。どきどき。場所も未知だし、

本当の意味で旅なような日々でした。

周りはちょっとした観光地なので誘惑は多少あります。が何か食べたいという欲は断食中はありません。

しかし

いろんな感情が湧いてきます。

びっくりするほど自分の至らなさと未熟さ。

それを否定するおこがましさ。

自己憐憫のかたまり。 

でもなにかに逃避したり

自暴自棄にならない環境がここにはある。

 

ネットも使おうと思えば使えたけど山の不便な環境のままにしておいた。

 

 

 

よく考えすぎといわれます。

押し寄せてくる波をどう対処すればいいのか

わからなくなる。

 

食べないと苦しいのかといわれると、実は苦しくない。

苦しいのは食べるのを再開する時です。

実は腸と脳はとても繋がりがあると、ききました。なるほど、空腹であることにあきらめた脳は感情の苦しみを書くことで転化できると促してくれました。

 

 

この2ヶ月くらいどうしたらいいのか本当にわからなくて、いや、どうもしなくてもいいのに、目の前の日々に流されて日記すら書いてなかった。

書くことはわたしにとって生命線なのに。

それに気づかせてくれただけでもきてよかった。

 

家族にすすめられるままに、

一年読めなかった本たちもなんだったのだ、というほどするすると空腹と暇に任せて読める。

その中にパウロコデイロの、アルケミストという本がありました。

、、、

アルケミストの中で、主人公である少年に

人生のすすむべき前兆はいたるところにある、

そして宇宙の言葉(原語の方がもしかするとしっくりするかもしれない、普遍的な言葉と訳された方がいいのかも)

は幸福と、偶然の一致にある、とある人が

言うのが心に残ります。

、、、

断食は黙行ではないのでなんとなく静かにすごしながらも涼しくなると友と夕方涼みにでたり、流星群みたりしながら語り合いました。

普通の旅行では考えられないような濃密な時間の中で、

彼女と語る言葉の節々に、本から出てくることと一致があったり、何気ない散歩の中でであう言葉に何か自分のいままでの何かとリンクしたとき、わくわくするような一致を感じる。

 

幸福とはわくわくなのではないか。

偶然の一致とわくわくが重なるところにこそ

重要な、すすむべに道を示唆する言葉、があるのではなかろうか。

 

寅年の人たちが寅にまつわるところにいくように。

 

その2につづく

 

 

 

 

歌のうみへ

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ハワイにすむヒーラーのような方に

出会った。

名前もはっきり覚えてないし、

たまたま行きたいところに行くだけで内容も知らないままに直観だけで参加。友だちに感謝。よくぞ私を誘ってくれた。

 

ハワイのパーマカルチャーをされてる方のお話会だったのだけど

パートナーの方がとてもチャーミングですてきな方だった。

英語っていうのもあったので私の理解はいかほどかと思う。

 

その時私はにこにこはしてたけど、

完全に落ちている時で、底沼も底沼、ドボドボ底辺をはい泳いでいるような感覚。

息継ぎのたびに顔は笑うというような

 

もちろん楽しかった感覚もたくさんあったのです

でもその私をきつい泥がはねるたびに

どばっどばっとかかる。

それならやはり沼に入ってようと。

 

夢のようなうるおぼえの中で彼女が言ったのです。

 

人にはそれぞれのうたがある

癒しが必要な部分にうたが湧いてくる

一つとして同じうたはない、とのこと。(たぶん)

そして彼女がなにか英語でない言語でアカペラで歌ってくれた。

 

人には2つ、目があるけれどもう一つ、ひたいにあるのです、そこでみるようにしてます、、といわれて、私が、あ、第三の目でしょう?ときくと、

いいえちがうのよ、第一の目です、と。

 

もし誰もいなかったら

溢れそうになってるうたを

私は彼女とうたっていたかった

 

私にとってのうたは人前で歌うものではなく

もう一つの大切な目で見ることができる世界で歌うものだと、はっきりわかった。

 

こんなうたならずっと歌っていたい。

屋久島のいつかの森で鹿とうたったような

 

 

 

お別れする時

拙い言葉で挨拶したら、潤んだ目で

あなたの気持ちは伝わってますよ、と。

また出逢いたい

ワイ島もできれば行ってみたい

 

やはり帰宅して私はまだ泥沼にいたのだけれど、その沼は浅いほうがきつくて、泳げるほどに深いところへ移動する

 

深みまでいくと、

海も悪くないような

悪いどころか癒しに変換してくれるような

 

 

 

 

ひるまない

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ひるまない

 

最近そういう言葉が自分の中からでてくる

 

はずかしくなったり、自分にはそこまでいう価値があるのか。

とか

もしくはそんなにやってもないのに、知ってもいないのに発言していいのか。とか。

 

私が発言すると、やっぱり違う意見もあるし、間違ってて恥ずかしい気持ちになったりすることもある。

 

表面的に熱をもって突き動く人、淡々と静かに

けれど確実に突き進む人。

 

なににもなってないと躊躇するのはやめよう 

これがすき

これがやりたい

やりたくない

あきた笑

 

自分に向いてないと思っても惹かれる

私よりも好き度が相手の方が高く感じるとしても、私も「すき」

ひるまない

あとずさりしない

 

 

ひるまない 

という言葉が「私なんて」という言葉を

遮断していく 

 

私なんて、なんて感情は

遮断したっていいんです。

 

今回の選挙で

どうして選挙に関心がない人が多いんだろう?

という声がきこえる

 

選挙行きましょう、というチラシを友人たちが作るとき居合わせて私も配布しにいったりしたけれど、

やっぱり政局について詳しくないと、くらいついていかないと、また自分の言葉で言えないとだめなのかな?と活動的な自分の意見をいう周りの人たちをみてリスペクトしつつもやっぱり言葉がでてこなくなる

 

そしていわゆる頭脳活動が

私は人より遅いんだと思う。

前はそれがほんとうに嫌だったけれど

遅さに対してslowという言葉の言い換えがでてくる

降りてくるスピードが違う。。

 

今回山本太郎さん率いる政党には

特定枠で

精神活動は一般的な人よりも豊かな、けれど出方がゆっくりなお二人が立候補されてた。

太郎さんは情熱的だし震災後から注目はしていたけれど自分じゃなくて

その人たちを優先にする理由は

slow さにこそ価値があるってことなのかも。

 

代理人じゃなくて当事者がいくって

てこともあるけれど

そうじゃなければ意味がない

 

 

 

 

 

選挙期間はまったなしだったけど

選挙が終わってからこそ

じわじわと

わたしの言葉も

それぞれのところでの思いもしみでてる。