かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

書を捨てて旅に出よ、書を携えて、

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書を捨てて、、と謳ったのはたしか寺山修司

 

それはどういう意味?

旅には本は不可欠だけれど?と思ったものだ。

 

 

 

今朝、起きてうかんだことば。から連想する。(朝浮かぶことは夢の中のふるいにかけられた言葉だと思っている)

私がつけくわえるなら、

 

 

書を捨てて旅に出よ、書を携えて。

 

いや、携えて、というより

 

書を捨てて旅に出よ、さすればまた得る

 

 

 

荷物は最小限の、長めの旅に出ていた息子の行く先には新しい出会いがあったのだと思う。本の出会いもあったかもだけれど、書を捨てよ、というのはまずは頭の中だけの世界から脱出せよ、ということなのか。

 

何冊も何冊も本棚には憧れと妄想から脱出できない本がある。

ずっと何年も何年もそれはあるのだけれど、昨日、長い旅から帰ってきてまだ疲れのとれない息子が本棚をみて叫んだ。

 

これ、おれが旅先の本屋でみて読みたくなったやつ!

 

多分旅にでると、家にかえってきたときの風景も変わる。旅眼鏡というべきか、

 

まず自分の中の書をすてる。

 

一度でる。 

 

 

また戻ってきたときの風景は同じものでも新しいし、全く違う観点から見るのかもしれない。

 

 

息子が読みたい、といったのは、ソローの森の生活

 

今回そんな思想と実践をしている方々のところへもお世話になったこともあるけれど、

帰宅後家の本棚(親の本棚)に読みたいのがたくさんある!と言ってくれたのは嬉しかった。

 

また、直島での森山未来の言った言葉を思い出す。

「あなたは自分の家から出て、この島にやってきた。そしてまた帰っていくけれどそこはもう以前のあなたの家ではない。」みたいなことを踊りながら話していた。

 

私にとっても旅は、日常やそこにずっと変わらずにあったもの、あり続けるものへの新しい確認であり、スパイスである。

 

 

 

アンジュール

 

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昨日学生時代の親友と数年ぶりに電話で話した。

 

 

ふとおもいだすのは、アンジュールという絵本をくれたO

 

いまどうしている?

わたしより連絡をとっていただろう電話の友にきくがもうかれこれ5年以上は音信不通だとか。いま新宿にいるとかいないとか。最後にきいたのはバーテンダーをしつつ人の悩みをきいていたとか。

私は20年は会っていない。

の、「20年」がこの年になると多い。

 

なんだか異性なのに話しやすいと思ったら彼は途中からなんとなく異性ではなかったのかもしれない、と思った。

 

 

 

 

アンジュール

小説をかいていた彼がくれた字のない絵本

 http://www.ehonnavi.net/sp/sp_ehon00.asp?no=2186&spf=1

 

なんでくれたんだったろう。このころはよく本をあげたりもらったりした。

 

(尊敬してた児童文学の今江祥智も推薦してたような気がする。)

 

本をたくさん読むことは学びにはなるけれど字を読むことだけが文をつくることにはけっしてつながらないというのを文を書く彼に教えてもらった。

 

 

 

 

暗黒の(苦笑)高校時代までと違って、大学生になるとずっと同じ教室にいる必要がない、というのが私にはほんとうに気が楽だった。教室という空間は私にとっては逃げ場がなくつらかった。

 

陳腐な言い方だけど、学校の外にフィールドがあり、対話する人がいればその場は学校だし、究極そんな人居なくても居てもいいと思わせるのが行っていた学校だった。

 

親友のHとはたいした話はしないんだけど、はじめて話さなくても一緒に居られる人だった。逆にそんなんで安心してたくさん話したような気もするが。しばらくしたらやっぱり話す必要がなくてただただぼーっといたことも多かった。

 

 

 

 

 

こないだ行った古本市で、岡崎京子の本をたくさんみたからか、

Oも、電話のHも岡崎京子がすきだった。私にはちょっとハードすぎて読みそびれているけれど。

 

岡崎京子オザケンのライブにきてはったみたいですよ、と古本市の店主は言っていた。

それ私も知ってる。そんな世代だ。

 

私は大島弓子の雑草物語を買った。

 

大島弓子がすきなんだったら岡崎京子が物語の中で沢山パロディしてますよ、店主。そんなことをいまごろ知る。

 

 

 

 

 

逆立ちする

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友人と久しぶりにゆっくり話したとき、毎日逆立ちをするという話をしていた。

 

ほんとうは逆立ちの姿勢がほんとうなのかも?

逆子っていわれる産まれ方は足から産まれてくる。

 

ということは逆立ちって

 

全てをひっくりかえしているようで本来の姿に戻っている。

 

でもあまりに逆立ちじゃないほうが当たり前になっていてずっと逆立ちはできない。。

 

けれどやるとなにか本来の身体や心に戻るような気がする、とその友人が言うので、家に帰って思い切って何年かぶりにやってみることになった。

 

こどものときはぐるぐるまわることやさか上がり、逆立ちも不器用なりにあの、逆さになって引力からさからう不安定さが心地よい。これは懐かしさからきているのかもしれない。

 

胎児の記憶やこどものときの時間の流れは大人よりも長い。

 

その時にずっと逆立ちしていた「私」はどうして地に足ついていることが当たり前になっているのだろう。

 

さてわたくし。逆立ちをどうにかして壁をたよりつつ何秒か、何分かしてみた。

 

使ってないところがぐーんと伸びる感じ。忘れてた感覚。ずっとはできないけど、またしたくなる感覚。

 

 

夏にみた森山未来ダンスの言葉にも通じる。あたりまえになっていることが実はナンセンスでナンセンスだと思っていたことが実はほんとうだったりする。

 

時間の概念や常識的なこと。それが社会を作っていくから必要ではあるけれどドクマティックになっていくとき「逆立ち」してみる。

 

ひっくりかえしてみる。

 

1日分のドグマを逆立ちでまたフラットにする。

 

今日もやっぱり寝る前にやるかな。

 

 

 

与えることはなくなることではない

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 今回園のバザーで短いお話を憶えて素語りさせてもらいました。  

 

読み聞かせでよむのとちがって体にも言葉を落としこむ作業のなか、このグリムの星の金貨というお話を何度となく反芻した。

 

 

ちいさな貧しい女の子は歩いていく中で出会う人、出会う人にどんどん何もかもあたえ尽くしてしまう。

 

なにもなくなってしまった、暗い森の中で彼女はなにを感じていたんだろう。

 

 

どうして貧しさの中にある人に神さまはあえて、与えるということを課すのだろう。

 

 

彼女があたえ尽くした暗闇の中。

 

おはなしをしているとその情景がふっとあらわれるときがありました。

 

不思議なのだけれどそこに彼女の中に悲壮感がない。与え尽くすことの達成感すら感じる。

 

「かみさまを信じる心を彼女はいつももっていました。」

 

 

かみさまの何を信じていたのか。

 

自分が与えられているものはかみさまから来たもの。かみさまは豊かな方だ、という確信。一見自分をすりへらしているようにみえるけれど実際はその真実を信じる心で満ちている。

 

 

「天から星がいっぺんに降ってきた。それはまばゆい光をはなつ金貨となった」

 

外側の状況に左右されず信じるとその豊かさが目に見えてやってくる。

 

 

女の子の、かみさまを信じるということは豊かさの根源とつながることなんじゃないか、と

 

語りながらふと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

breathing


10月1日




私の父親がなくなって早6年。

6年前、父親と理由があって会わなくなって8年が経とうとしていた秋口、私は精神的に結構きつい状態にありました。

その状態になにかしら原因とか、理由づけすることはできるけれど、もしかしたらそういう父親のことを無意識のうちに身体で感じていたのかもしれない。

私の体調を気に病んで母親が子守にきてくれていたのに翌朝、起きると母が居なくなっている。

連絡するとそういうことだった。

ちいさな葬式をあげた。夫がギターを弾いて賛美歌を歌った。父親はクリスチャンではないけれど。

やっぱりこの時期になると具合が悪くなる。そして母から今日は命日だよときいて思い出す。

写真を飾ることも墓参りもなかなか行けなかった。

父が亡くなった1年後ある整体の先生に身体をさわってもらった。

ちょうど今から5年前。
すぐに、、父親に手紙を書くといい、といわれた。

私は本当にびっくりした。父はなくなっていることを伝えると、なおのこといい、出さなくていい手紙なのだから。

泣きながら書いた。文章にならなかったと思う。会いたくないと、蓋をしていた心が蓋を開けてしまった途端どよめくようにわっとでた。

その後何年かはよくガラスのように繊細になっていた。何か傷つけるものがあったのには間違いないが、傷つきやすかった。



この夏の父の誕生日にふとその重いものが軽くなった気がした。

ゆるし、という言葉がふさわしいかどうかわからない。でも留まっていたなにかがふっと蒸発したような気がした。

命日すぎて、昨日庭の秋名菊がようやくさいた。

父親に飾ろうとおもった。

やっと思えた、と思った。

散々苦労かけられただろう母は、毎年命日を覚えていて毎年今日だね、と連絡してくる。記念のごはんも食べようと誘ってくる。
私がわすれてしまうのは、無意識に忘却機能が作動してしまっているからかもしれない。

しかし命とはほんとうに大きなものだ、と実感する。

私は父がいなかったら存在していないのだな、その関係性を否定したい思いが自分を否定したい思いに発展していくこともあったけれど、
それすらも昇華する次元がある。

息を吐いて人間はうまれ、息を吸って死んでいく。

呼吸は毎回毎回うまれては死んでいく、の繰り返しだ。とふと思った。

鐘の音



いつもより早く目が醒めると、遠くの方で鐘の音が聴こえてくる。


その安堵感は一体どこから来るのだろうか

ごおん、という鐘の音。

すっと屋内でもすすき野原で1人ただずんでいるような気持ちになる。


(鐘の音に導かれて、憧れて教会に行きはじめた、とはつめさんは言っていた。)

導かれる何かをかんじる。なんというかひとつのその音が身体に染みいるのはなぜなんだろうか。


いつもあるのだけれど、あるんだ、ということを意識、おもいだせてくれるひとつの響き。

それはシンプルな音の方がよい気がする。

単音の方が響く。響きわたっていく。

共に在ること

自動的にときはすぎていくけれど、共に在りつづけることは自動的にはすぎていかない。

静かなときもそうでないときも、幸せな気分のときもそうでないときも、笑ってるときもそうでないときも。


居続けることができるのは本当に本当に感謝な事だ。