かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

go straight/in a silent way





何もみえない暗がりの中に入っていく

いかに視覚にたよっていたのか、よたよたしながら入って声と壁をたよりにたどりついて、しばらく暗闇の空を視る。

なにもみえない

みつづける

なにもみえない


それが


みえるようなきがしてくる


もしかして明かりがつきはじめたのではないか。


大きな窓のような薄暗い光を感じる。

前へどうぞと言われる

ひとの顔も認識できるほどの明るさ



しかし



最初から照明は決して明るくなってきてはおらず、なにも明るさは変わってない。という。

真っ暗闇に通されたとき、恐怖に耐えるためにいつかきっと明るくなるという希望がある。


突然の暗闇をこうやって擬似的に体験することはあるが、だんだん暗闇の中に目が慣れていくのとは逆に世の中は暗闇に少しずつなっていて目がそちらの方に慣れてしまうことがある。



あたりまえのあかるさ、あたりまえのくらさ



あたりまえのよろこび、あたりまえのかなしみ



まるでそれはネガティヴでもポジティブでも、慣れたら大したことないかのように順応していく





芸術の、意識的な装置に身を置くことではたして、私のいる場所は、あたりまえなのだろうか。と疑問に思う。


以前にもきいた(ひっくりかえす)という言葉。

ここでも島を離れる前にきいた


私の視ているこの木は私の外側にあると、あたりまえに感じているがもしかしたら内側にあるのかもしれない

かなしみは、私の内側から発生していると信じて疑わないけれどそれはもしかしたら私の傍にあるかもしれない


何かの装置、何かの場所を通過してみて、

信じていた何かが全く違う位置にあるのを感じる。

辺境へ辺境へ、旅をして私の場所をさがそうとして帰る場所にそれがあるのに気がつくのは、


そういった

ひっくりかえり

の作用が辺境の場所でおこる


日常に戻ってその
(ひっくりかえり)をまた信じられなくなったときにヒトは芸術的装置に惹かれて、日常から離れて辺境へいくのかもしれない





ジェイムスタレル/直島、南寺にて

山、星、月、海


明るみに

山をみては星を思い、
海をみては月を思う

くらがりに、
星をみては山を思い、

月をみては海を思う

月は海を照らしてる

星は山に流れていく


ならば私のこころよ

くらいときにこそ流星がごとくの一筋の光をおもいおこせ

明るさの中に
月の光を想いつつ漆黒の海のように鎮まれ

地下通路


草の根、って言葉があるけれどもっと深く、地下通路があるのではないか、と思うときがあります。

ここと、ここがすごく遠いのにさっとつながっている感覚。

一見、異なるものやむしろ真逆に感じる物や人とシンパシーを感じる。であった瞬間、道が貫通しているような。




地上の交通機関を使っているにもかかわらずどこでもドアよろしくその場にまるで地上の障害物もなくすっと到着するイメージ。

それは時空を超えて、20年かかって到着しても感じるときがあるくらい不思議な感覚なのです。



いくら同じ場にずっといても感じないのに、すっと到着したところで、あ、こことは地下通路で繋がってたんだと思う不思議さ。

昨日会った、しばらく会ってない友人とも(20ねんぶり、、)そんなことをおもった。道がたたれてると思っても繋がってたんだ

社会的な運動をしている人が連帯という言葉を使うことがあるけれど、連なる帯は大手のマスコミじゃないメディアで確認し人海戦術でツルハシをもってすすむがごとくゆるりだけれどつながっている。

いそがないといけない案件ももちろんある。あきらめそうになることも沢山、でも、こことここがスムーズに移動できる通路を先人が作ってくれていたり少しずつでもほっていったり。


表面的なことで右往左往しない。山を動かすようなことは目に見えない部分なんだといたく思った。

止まり木


向田邦子さんの部屋の棚にはたしか「う」とかいた抽斗があった。

美味しいものの情報をいれておくひきだし。ショップカードとか、おてもとなんかの店名なんかが書いてあったんじゃないかと記憶する。

いくらネットやなんかの検索があったとしてもその根っこにはこうした口コミのようなものがあると思う。
向田さんが妹さんとままやという小料理屋をはじめた話は有名だ。



そんな美味しいもの好きの向田邦子の小説をいま再読していて

(正確にいうと再読というより再聴。
最近の私はラジオもテレビもしんどくて岸田今日子なんかの朗読をきいている。)

描写される合間、合間でふっとbarがでてくる。

大人になってもそういったところに縁がなかったものだからそんなシーンをみると、どんなところだろうか、と妄想してみる。



息子が手に入れた漫画バーテンダーで、barは止まり木、tenderは優しい

つまりbarは人にとっての止まり木。
と書いてあった。


休憩だったり、ここぞとばかりのなにか停留場所だったり、リトリートする場所だったり。

居心地のよい空間を求めていることの多い私。結局その場にいて、自分を取り戻そうとしている

カウンター越しにバーテンダーはその人の孤独や寂しさ、弱さを発見してそれに合うカクテルをつくる。

バーがきになる、って思ってたけれど、単にお酒の奥深さがすきなだけじゃなくてきた人をいやす作用が気になるんだろうなあ。。
それは丁寧にいれたお茶でもいいのかも。


朝駆けに珈琲をのみに、というより淹れてくれる人に会いにカフェに行った。ほんの1時間もない時間で大きな力をもらうのだ

与えられているものを

むかしの話だけれど20歳になったとき、高校の社会の先生から選挙行ってね、と電話があった。
当時、誰にいれても何も変わらない気がして、入れません。とえらそうにいった。いま思えば当時の先生はいまの私くらいだ。

いつからいくようになったのだろう

たぶんそれは家を出てからだ

育ったところをでてみて、当たり前に思ってたものがそうでないのをしる。
与えられているものを当たり前に思う。
でも実は違う

自由には責任が伴う

選挙権もそうだけれど、このくにで当たり前になっている平和は当たり前じゃないし、それも崩れそうになってきている。

私が変わっても何も変わらないと思わないで

ひとしずくひとしずくでは蒸発してしまいそうだけれど沢山のひとしずくにしていこう

それは大きな川になって流れを変えていく。

過去からの手紙

ここのところ忙しすぎて、自分を満たす作業を忘れ気味/自分はいなくてもいいかのようにもっていってしまう、ああよくないなあ、人の為になにかすることも心からでなかったら意識的にシフトダウンしよう。。

なんだか周りがキラキラしてみえてて、しゅんとしてたとき。

去年の3月に行なわれたライアー作りの感想をつかわせてくれないか、と友人からメール。(ワークショップはまた夏にあるそう)

私の弱さがでるときに陥りやすいポイント。ちゃんと未来を見越しての過去からのお手紙。



ーーーおおげさかもしれないけど、 内面への旅のようなワークショップでした。
ライアーをやりたい、そしてライアワークショップに
参加したいというのは明らかなのだけれど、ど
の木がいいか、どの形がいいか、そしてどんなデザインがいいか。
が目の前にしても真っ白のまま。 結局講師のおにちゃんに導かれるまま、
オーリングで私の身体とあう木を選んでもらいました。
他の方が選び、掘っていくのをみて あんなのもよかったこんなのもよかった、
と目移りする私。 しかし途中、木彫が得意な夫が、
木がどのように彫るかを教えてくれる、といってくれました。
方向が定まると無心になって彫りすすみます。
私の生き方もそんな風に導かれるまま。 もう少し「私」がなにを欲しているのか
木を彫るように生き方も模索したらいいのかな。
でもやはり導かれるままでよいのかも、と。 翌日朝、ひとりでひいたライアー。
おにちゃんのいうようにかけがえのない、 わたしのこどものようでした。
朝に響く音もすばらしかった。 偶然にも木に教えてもらった模様は
娘の幼稚園時代の印の蝶のようになっており 娘との記念にもなりました。
2015/3

言葉を知る


詩人の工藤直子さんのお話を昔ききにいったとき、なるほど、とおもったことがあった。

他人の詩であろうと、自分がその詩の意味を知り、感覚を共有することができたらその詩はあなたの詩だ、と。

小説であれ、音楽であれ、それを書く側は共感する種をまいているのだとおもう。読み手の代弁をしているというか。

いま、娘が一茶や芭蕉の俳句を憶えてくちずさんでいる。

その季節季節にぴったりくるとふっと情景に馴染む俳句もある。

学校で国語を学ぶ醍醐味はまさに「私」の感覚を言語化したものを見つけ、身に付ける喜びなのではないだろうか。

意味はわからなくとも