かやつり草

日々の、おもいたつこと

ときはなつ言葉と波紋と

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ここでわたしが感じた風

ここであなたが拾った記憶

水鳥が鳴く声が星座のように

点と点で繋がっていく

 

その繋がりがまた

ひとつの景色と物語をつくっていく

 

2019.5

chisakokita 

 

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どうもいままで通りにはいかないようです

うまれかわるような気分

発熱

体調も、そして心も落ち込んではいるけれど

もう何かを理由に落ち込んでいるというよりは

必要で落ち込んでいるのだと自覚。

全託。

 

、、、、、、

 

宇宙の図書館とひとりひとり繋がってる

 

そんな不思議なことを昨日ききました。

そして自分が解き放った言葉が

まわりまわっていまわたしのところに届くということがあるようです

 

ときはなてばもうすっかり忘却していたのに

あなたの言葉は今のわたしにぴったりだったよ、とそこでわたしは自分のときはなった言葉をだれかからあたらしい気持ちと懐かしい気持ちできく

 

そもそも星座なんていうものも、はっきりいって遠くからみればひとつの点にしか見えない。それをつないだのはそれをみていたあまりに豊かなイマジネーションをもつ人

いや宇宙からのメッセージだったかも

 

だからたくさんの粒子がちらばっていて

沢山の情報がちらばっているなかで、

 

なにかをとりだしたり、受け取ったりするのは

自分の取り出す、という意思でもあり、

偶然のようで必然の「投函」なので

 

そのときの摩擦がまたふわっと波紋をよびおこしている

 巡り巡ってまさかの一年後、2年後に同じメッセージが来ることもある

 

そして物語がはじまるときがある

物語のはじまりは

闇の中からだ

無のようなそんな感じ

 

光をあらわすために

影も存在する

 

そこに光が現れるために

 

(写真の薔薇。ローなときにタイミングで友人の家の庭の薔薇をいただく。嬉しい。)

 

 

 

 

 

 

 

清明 はじめてにじがみえる

 

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新緑の季節、みるまに

芽が出たとおもいきや葉が広がっていく

あのちぢこまった姿や閉じているときの愛おしさはなんだろう。

 

開くと嬉しい、けれどさみしさが多少あったりなかったり。

なんでしょうね。

 

あったときには触ったこともないといっていた友人が楽器をたずさえては方々で唄っているという。

実はプライベートでしかまだきいたことはないのだけれど、本人がどう思おうと、その人はある意味メッセンジャーでなにかみえないものに動かされてるものがあるのだろうと察する。

 

がんばるという言葉が苦手で、本当に頑張ってるときって、がんばる意識すらなくて、生き生きとうごいている。だれかががんばるといってしまうときはなんとも切なく感じてしまう。

まあ、頑張らないといけない時もあるのだけれど、わたしはその言葉をのみ込む。

 

ひたすらなにかにつきうごかされてるわけだから。

 

暦のうえでは

はじめて虹がみえるころらしく、

この冬書いた詩を外国にいる人に送ると、 

彼の国では詩の中にいる虹の使者のようなヒトがたくさんいるらしい

 

虹というのは光の加減でみえるわけで

ほんとうはめにみえないけれどいつもみえているひかりの色、、

色というサインにもっともっと敏感になろう、

使者からのメッセージにもっと耳を傾けよう

 

 

 

、、、、、、

 

 

 

 

 

 

虹の使者は
闇の中で働いている

誰かにメッセージを届けようと
今日の色彩はこれでいこうと
あの人に届けるように
この時に、よきタイミングで
時間も場所も
暗闇が深いうちから

光の粒を調合して

日が昇る前から
せっせと働いている
誰かの声に
耳を働かせて
またその声のもとに届けようと

また虹みたね!とあの人とあの人を繋ぐために

虹のはし、とはしをどこにしようか
せっせせっせと暗闇のうちから
働いている

 

chisakokita 

 

 

(あたらしいはじまりのまえ、より虹の使者)

言の葉

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剪定というものをこないだ庭師の方に教えてもらったのです

 

整えていく道すじというものがあって全体の形、そしてどの枝をメインにしていくか、

こみあわないように切り揃えていく過程と、

外の芽、内側の芽、

平行枝、根元で切ることなど、一度ではなかなか実際には身についてはいないと思うのですが、近くをよくみること、、、ばかりでなく

たまに少し遠くからみてみることが大切とのこと

 

 

絵を描いたり言葉をかいたり、たびに出たりしたりして遠くのモノを近くに寄せてみること、

 

遠くにいって、もしくは遠くを思いながら日常をすごしたり、淡々とした日常を味わいながら遠くのことを妄想する

 

日々の「近く」は相当に大切で、繊細で、

なにかを省いたり、なにかを断ったりしながら自らの道をかき分け日の光を浴びる

たまに失敗して、ああ、、と思いながらも

 

俯瞰してもの事をみるようにたまにはふっと遠くみる

 

山が笑う新緑

気づけばとても緑まぶしい季節です

 

 

手から手へ

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手から手へ

 


インドの食事

インドでは手で食べる

手でいただくと、食べるということへの

感覚が、親しく本能的になる気がする

 

食事の量も一度に

アンジャリ二杯分といわれ

調べるとアンジャリとはたなごごろ、手と手のこと、、つまり合掌

 


気がつけば合掌の意味をいままでまったく気にもとめてなかったが

 

ちいさな子の手を繋ぐように
命にふれるときに手をあわせることと、食事の度に手を合わせることは同じなのだと気がつく

 

 

、、、、、、、、

 

 

随分と前になくなった祖母は30年近くたった今でも驚きのタイミングで私に「手紙」をくれる

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(ああ手紙も、「手」か!)

 


日々是好日

 


生きているときには多分ほとんどその茶道具を私はみることはなかったのだけれど、茶碗に触れ、お釜に触れそれら大切にしていた叔母たちの住まいに触れ

母たちの昔話に触れ

 

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そしてふと先日きいた茶杓展での話を思い出す。

 


「茶人は茶杓をつくる方が多い。

その茶杓に触れるとき、その作られた茶人の手に触れることになるのです」

 

 

 

 

 

どういうわけか茶道具を譲り受けるその次の日

 


ああ、おばあちゃん、今日はおばあちゃんの誕生日じゃないの!

茶室ではそんなことは誰も気づかずか全く話題にもせず帰宅し祖母の短冊にかかれた書抱きながら

 

 


誕生日は「生きる言葉を延ばす日」と見えたのはいつだったか

生きているひとりひとりの存在。うまれた日を祝う心、そして死んでもなおそうやってかつてあったその存在を祝うことの効用ははかりしれない

 


叔母から譲り受けた茶碗を手にふと、今私は祖母の手に触れていると感じる。

 

それは手紙のようであり、

幼い日に私が祖母と繋ぐ手の感触

 

 

そしてまた私も、私と、そしてまた誰かと手をつないでいくのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほうきが飛ばない

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ほうきはそもそも飛ばないもので

言葉もそう思えば

何も浮かばなくてもよいのかも

とはやる気持ちもそこそこに

 

そうだあの人を助けようとしたキキが

デッキブラシで飛んだように

きっと私も不格好で結果的に弘法筆を選ばず、な感じになるのだろう

 

まえへまえへ行かずとも

行かなければいけない時はいくし、

何もないと口ずさみながらも

きっとそれすら口ずさめない日々もあった

 

ちゃんと気流に乗るように、私が発した言葉はどこかでちゃんと伝導していて

翌日ちゃんと「引き寄せていたり」

ならばもっと言葉を発した方がいいのか、それとも黙って想いを天にのみ

述べている方がよほどよいのか

私にはわからない。

 

動いた方が吉か

じっとしていた方が吉か

それこそ運なのである。

 

運は運ぶとかくよなあ、

運ばれていくとき

運が良いといい、

停滞しているときは運が悪いというのか。

 

私は意外と赤信号が好きでその間に深呼吸できる。

 

今の状況を運が悪いということも

運が良いということもできる

 

だれからみても不運な人が喜んでいたり

さほど悪くなくても満足できていない場合もある

その出来事をさらりと受け止めて流すことのできる人

 

それは本当に才能だ。

さあほうきが飛ばなくなったと

ずんときたとしてもやっぱり

笑ってられる。

 

事象はただそこにあると言うだけ。

 

 

 

渡り鳥

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何も湧いてこない

何もおとずれてこない

 


ズドンと鈍器のようなおもしが蓋となっている

 

 

 

暗闇と痛みだけ

重さとかなしみ

 


痛みさえ通り越して何も感じない

とどいた手紙も封印されてきっと届かない

 


風だけが吹いている

すすきの原を風が吹いている

 


わたしはいつのまにかその重石になっていた

地面から暮れていく空を石がながめる

 


渡り鳥が曲線を描いて飛んでいくね

とそばにいた石がいう

 


ほんとうに?

目を凝らすと

ああほんとうに

 


染まる暮れゆく空を

渡っていく

点の群勢が

天の群勢が

 


めをあげると

重石はすこしかるくなっていた

 


重石のすきまから溢れるものたちのささやかなこえをきく

 

 

 

湧き出る泉の場所はここにあったのだ

言葉を押しとどめていたのはわたし

小窓

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今日、身体を診てくれる方がいて、その人はわたしに、

身体が気持ちのいい方へ

やりたいだけ

いやならやめていい

とききながらストレッチのようなものをリードしてくれる

 

痛む部分が本当に治ってほしいのか、と細かくきいてくれる

 

痛みがささやかであって

なにか違和感があるのが当たり前になっていて、

他人の話を傾聴するのはいいが、自分の身体にきくことを疎かにしている

 

それくらい我慢しなきゃ

とか

自分と他人を比べてあの人よりは痛くないのだから頑張らなきゃ、と心の痛みの声が大きくなるまで、そんなもんだ、と日々すごす

 

ささやかな声や、ささやかなぼんやりと映る景色はよくよくみないと、よくよくきかないとわからない。

 

自分を二の次にしている、その憤りから楽しいという感情を、自分が自分から奪った瞬間を目の当たりにして、

普段から贅沢しているではないかと罪の意識からなんとなく誰も言わずに電車に乗った。

 

どうしても行きたい場所があったのだ

行きたいをもう二の次にすることはしない。なにも世界の裏側に行くわけではないのだ。

(でも行かなければならない引力があるのなら借金してでも行くかもしれない。)

 

先日、内藤礼さんの展示に行って

生きることの祝福、受容、そしてその価値があまりになおざりに、ながされているという現実にストップがかかった。

 

私にただ話をきいてほしくて私のいうことをきいてくれない人はきっと私という対象がなくてもまた誰かを捕まえて都合のよい箱として話しかけるだろう

 

私はもうあなたの話をきかない、と決めたところで大丈夫なのだ。

 

そこで身体を壊すほどに気に病むことはないのだ

 

そこまで決意しないと私は私の伸びをすることができない

 

私はひさしぶりに気持ちの良い伸びをした

「身体にいい」

というジャッジすらない、

ただただたのしい伸び。

 

私の中の小窓からやっほーと声がする

 

根拠のない罪悪感

無理はしない

診断も気にしない

 

根拠のない罪悪感は

多分根拠のない肯定感へと

変わる

 

無理は結果怒りになるのなら

無理はしないで

やらない、という

 

診断はひとつの意見

私はどう思う?

をいつも自分にきいてあげよう