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かやつり草

日々の、おもいたつこと

五月礼讃

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こんな季節のよい時期に私は怒りすら出ずに心ここにあらず。

 

 

いままで生きてきてみたことないようなニュースが目に飛び込んでくる。

そんなニュースがでたって日々平々凡々と暮らしてるじゃないか

たのしく暮らしてるじゃないか

それで損してる人は目に見えるところで「いまのところ」いないようにみえる

 

 

くらしの中で

罪なきことが罪あることにされてしまう

準備

 

、、、、、、、、、

 

大好きな五月。

「五月礼讃」という詩を与謝野晶子は書いている

 

 

「五月礼讃」に何気ない根底に生きる喜びが綴られている。

愛する花々のこと、家族のこと。

愛が溢れるほどに好きな花について綴られている。

私も五月うまれ。庭の花も、お祝いにいただく花も嬉しい。

この季節が好きだということも綴りまくろう

 

心の中に祝う気持ち、愛にあふれる気持ちで充満させよう

 

その「満たし」の上で

はばかることなく言おう

 

「君死にたもうことなかれ」

 

五月礼讃

与謝野晶子の詩

http://rayk.blog84.fc2.com/blog-entry-270.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

light

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あたえられている力を十分につかえているか

 

白州次郎がきっかけで知ったnobless obligeという言葉。

多くを与えられている立場、力を持つものはそれを世のために使う義務がある

 

白州次郎はさておき

 

多くを与えられている人と比べて私は与えられていないから、些細だからなんのお役にもたてません

 

そうやって力を土の中に埋めてしまう

聖書の中にそんな話がでてくる。

主人にしもべがタラントを預かる話。

 

多くを預かったものたちは倍にして主人の帰りを待つ。

ところが少なく預かったものはそれをなくすのが怖くて土に埋める。

帰ってきた主人は怒り、それなら銀行に預けたものを!という。

この、「主人」はたとえこの少なく預かったしもべがこのお金を増やそうとして失くしたとしても怒らなかっただろう

 

恐れから土深く埋めてしまったことにとても残念な思いを抱いたのだと思う

でも私はこの土に埋めてしまったしもべにずっと共感してしまう

自分の与えられたもののちいささに恥じる思いもあるのか

 

 

キリストのたとえ話はちいさいもの、とりに足りないもの、貧しいもの、弱いもの話が沢山でてくる。

 

そんなちいさなささいなものであればあるほど神は選ぶ、というのだ。

世の中の価値基準とは真逆をいく。

先ほどの話でいえば小さく預けたしもべにこそ愛を注いでいたのかも。。

 

昨日みた光輝く鉱石をみて、多分信じられないほど長く土深くいたことに後から気づく

 

おそれをなして埋めてしまうことがあってもまた発掘すればいい。人はキラキラ光る鉱石を必ずもっているのだと思う。

世の光になりなさい 

そういうことなのだ。

 

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#ヴォーリス建築#駒井邸#世の光地の塩

 

 

 

stillwater

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庭の、ちいさなちいさなお茶の木。今年の新芽をお茶にしてほんの少し。

 

無色透明に近いそのお茶

 

驚くほどに薫ったのです。

 

水辺にいくと、とても生きた心地がするのはこういう「薫り」を生き物としての私が放つ瞬間があるからかも。

 

五感をひらいていなければ気づかない、ささやかなそれ

 

もうそのあとの賑やかな楽しさにしばし忘れていたのですが、夜ふとその瞬間をおもいだしました。

 

少し前に、ぜひにと誘われた映画の中でも水辺にいくシーンがありました。

 

森の中のちいさな湖

そこでカヌーにのることもあるでしょう。

スティルウォーター教なのです、と仰る映画の中の人は静かに森の中から水辺へと歩いていく。

 

近くに水辺はないけれどこうやってお茶をのんだり、花を生けたりすることは少しでもその感覚近くにいたいとすることなのかもしれない。

 

しずくに近いほどの杯のお茶にそのすべてが凝縮されているよなあ。。と昨日、歳を重ねた日の一杯のお茶に答えをいただいたのでした。

 

明鏡止水

 

 

 

 

 

 

 

 

地層

 

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フランスと淡路島の横にある沼島の地層が繋がっていると、以前行った時にきいて驚いたことがある。

 

海があって一見隔たりがある海でさえ、

奥底でつながっている数千キロを超えたところで地層的につながっているときいて専門的に意味はわからずとも喜びを感じた。

 

小さな点、小石。薄い地層。

そして、また層ができるのがわかるほどに全く異質の層があらわれる。その重なりがどんどん重なっていくと、それはまるで一つのものであるかのように異質と異質の重なりであればあるほどその固体は美しさを増す。

 

自分とあう、とかあわない、とかそういうことを超越してそれこそ神の計画の中で私を含めて人はその場に置かれている思う。

 

そこに苦々しさの感情が湧くことあるだろうけれどそれすらも深みになることもある。

できあがったものは美しさしかない。

 

音楽をつくりだす人もまたそこに集まる人も、またそこに向かっていろんな多様性があればあるこそ深みや層になっていく。

 

 

、、、、、、、、

 

一年前から9回シリーズではじまったroomという音楽会。スティルルームという場所で、ビオラ奏者の優子さんとゲストが毎回紡ぎだす音楽の時間。一回目にゲストで参加させてもらってからなんとなくずっとかかわらせてもらっている。今回8回目はたいせつな友人がゲストになった。

優子さんがゲストを決めるというよりはそのときそのときの流れでまた音楽性も歩み寄ったり、不思議な相乗効果がうまれたり。

今回はすでに重ねてきた様々な「地層」にさらにキラキラ光る鉱石が現れたとでもいうべきか。いままでももちろんキラキラしたものがたくさんあったのだけれど、その蓄積に、レイヤーにこの段階になってその地層の深さに気づいたとき、深い感動があった。

感動って感情が溢れてしまうのとは少し違う。

 

自己と他の区別がなくなるというか、みている方が演奏している方と区別がつかなくなるような。。

演奏者たちの美しさと自分を比べて、、ということがない。一体となるようなつながりと連続性。

 

このところ表現者でいたい、という気持ちに自信のなさをおぼえていたり、出る側ではなく、サポートをする側の人間なのかも、、と若干自己評価が低下していだけれど、roomは私にとってそういうことも考えなくなるところ。

カフェの名前がStillRoom(熟成するところ、寝かすところ)だからなのかも。

自己とか他己とかの区別がつかなくなるってこういうことなのか

めにみえない音楽に惹かれるのは。そこなのかも

 

そうなると

roomのイベントだけじゃなくてスティルルームも、さらにそれぞれの生活の日々、日々が地層なんだと思う。

 

ちいさなひとつの偶然が重なって重なって。ひとつの点が連なって連なって。

 

 

追伸

ゲストである友は演奏会までの日々を航海にたとえていたのでふと沼島からフランスに連なる海を思いだしたのでした。

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StillRoom

room.vol8

#銀河鉄道の夜#Alto#Piano#yukokunomura#クレソン#よあけ#moonriver

 

 

ぼくの叔父さん

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ジャックタチのぼくの叔父さんシリーズが好きだった。

フランス映画のお洒落さとコミカルさ。

立ち位置的には少し寅さんともかぶる?

 

こないだ娘の友達がお茶をたててくれた。季節の和菓子をこれから一年続けて食べる、、という夢みたいな企画の中で、お茶の話から茶人の叔父さんの話になった。

 

友人の話では子供の頃から少し変わった叔父さんが茶の趣味を彼女に伝えてきて、彼女いわく今のいろんな趣向の礎になったかな、と。

 

父親はいる。でもその関係とは違う「私」と「叔父さん」の距離感を私も思い出した。

 

深いところではやっぱり距離をおいても無視しても反面教師と捉えても父親の存在は否めないのだけれど、そこでの逃げ道というか、叔父さんたちにはたすけられた。山に行くのも、工芸的なことも生産的なところで叔父さんたちの存在。こどもの自分には大きかった。

 

叔父さんたちが父親よりもあまりに立派でくらべる自分がそこに誕生してしまったけれど、子ども時代は本当にお世話になったし影響も受けたと思う。

 

そんなわけで大人になってジャックタチのぼくの叔父さんをみたときどうも惹かれてしまった。私の叔父さんとはもちろん違うけれど、まあ叔父さんコンプレックスとでもいうべきか。

どこか社会からもなんとなく浮いているけれど愛すべき存在のぼくの叔父さん。

 

ぼくの家は最新で両親も都会的なのだけれど、どこかコミカル。作り手の皮肉を感じる。でも叔父さんの家は古くて蚤の市みたい。ファニーではあるのだけれど懐かしい当たり前さを感じる。家でさせてもらえないちょっとあかんこともさせてもらえてぼくは叔父さんが好きなのだけれど両親にはあまりいい顔をされない。

 

ぼくも、両親のことは好きなのだけれどいきぐるしさをおぼえてて、叔父さんの存在に救われる。

 

親戚というくくりで叔父さんに限定するとそんな人いない、という人もいるだろうけど、なんだか最近は友人が親戚のような気がしてる。お父さんに足りないものをこどもが求めたり。違うこどもがうちのお父さんに何か求めたり。

 

週末もオープンハウスをしていた友人夫婦のお宅をたずねたらひとりの男の人にずっとこどもたちがまとわりついていてついぞ彼とは一言くらいしか話さなかった。家主(男性)がずっと汗かきながら抱っこしている赤ちゃんも、来ていたお客さんのこどもだった。

 

あまりに親子関係だけだと煮つまる。日常の、不幸になりがちな関係性に、親もこどももたまに親戚みたいな人たちと集まってみるとスペースがひろがっていいのかもしれない。

 

なんとなく男性は叔父さん、だけれど女性の距離感のある存在はおばあさんと思うのは、ただ単に本の影響か。

 

 

 

 

 

 

 

 

失敗は「失敗」じゃない

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送ってきた写真

フェラーリ広場ジェノバ

 

2週間前からまたふたたび旅に出た息子とようやくそういう環境ができたみたいで電話で話した。いまはワイハイがあれば無料で電話ができるからありがたい。20年前のことを思うと驚く。

 

最初はエコツアーのスタッフhttp://www.miyazaki-catv.ne.jp/~ecohideki/

ということもあって楽しい日本人だらけだったが今は英語も通じないところで一人旅。なんとかイタリア語も話して食事もしてるようだ。

 

自転車旅ということもあってはっきりいってマイナートラブル続出の中で、なんとか次の代替策を考えたり、電車や宿の予約とか端末機あってのことだけど17でここまでやろうとおもったらできるのだなあ、、と驚く。

 

失敗から学ぶのだよ、と友人の大学の先生が言っていたけれど、息子も紛失したり壊れたりと色々あった中で次はこうする、とかあれはいらなかった、これはいる、とか言っていた。

 

彼の旅の師匠は旅行保険なんてかけない。と入念に準備する。

きっと長年の経験から、失敗の重なりの中でのことなんだと思う。

たしかにそっちの方が次のときにつながる。

 

話はちょっと変わるけれど友達に糸山先生という方が発案されたどんぐり問題というのを教えてもらった。

 

まだその内容を説明するまでのみこめてないのだけれど/学校の宿題はさせない/1週間に一度だけオリジナルの問題をする/のだが、そこで解けなかったり、間違えたとする。するとそれは、「お宝問題」としてストックしとくのだそう。

間違えるのはとてもいいことみたいに言っていた。

 

最初はふーん、とピンとこなかったけれど、昨日私も息子と話してみて思ったのだけれど、私も山にあまりにひさしぶりにいくと基本の持ち物以外に何がいるかな?と忘れている。行ってみて、あれがあったらよかったなーと現地の感覚で思いつくグッズがあらわれる。

忘れててもたいしたことないんだけどあったらすごく素敵なリスト。

 

人生においての小さな失敗の重なり。

 

かけなかった漢字も、忘れてきちゃったちょっとした道具は、自分にとってのお宝帖なんだと思うと、なるほど!と思った。

失敗って言葉があまりにネガテイブにみえるけれど違うんだなあ。。

命失うような事にならない限りやり直しはきく。

 

あと失敗したときにどう展開していくか。失敗したら終わりみたいにならないでさてどうする?と考える力。

学校のいわゆる勉強はさておきそういう展開力はついてきてるんやろうなあ。。

 

と父子の自転車のリペアについての会話(私には理解不能)をきいて思った。設計者である夫曰く、試作ですぐ合格するモノは合格じゃないそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

普遍的なこと

 

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ある方の文章で、

スローとは自分が生まれる前から、死んだ後にも残るだろう「信頼」とかかれていた。

 

 

書物を読んだり、旅をして全く自分と違う文化に触れる中で、自分の中にあるそういった共通の普遍性を発見する。

 

時代の流行りすたりを超えてのこっていくもの。

自分が長いこと良いと思っていること

芸術も思想も

たとえだれかに考え方が古い

と言われても捨てきれない思いや趣味嗜好。

効率的なものやスピードを必要とするものは一見便利でよいように思うけれど、何百年とすぎていったなかで一体どれだけのことがその、「信頼」として残るのだろうか。

 

よきものはかたつむりの速さですすむというけれど、いままでのやり方では古い、変えていこう、改定していこうとする。

よい方法はうまれていくけれど、それは、そのかわらないものへの、もしくは改定がされていく中でも変わらないものへの信頼の発見につながる。

 

 

また私の中で相容れない考え方、この人苦手だ、と思う中に一点光る、共有できるものを感じたときの喜び。

 

人を信じることは、信頼することにつながる。

けれどまずは自分への信頼、天との揺るがない信頼がまずあってのことだ。