かやつり草

日々の、おもいたつこと

言葉と、言葉なきことへの糸

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糸、というか橋

 

自分の中に言葉があるのか

と問うとつまってしまうときがある

というか詰まってばかりだ。

 

野口整体の体癖で私は骨盤型、と言われたことがあるけれど、まさに頭、ではモノを考えられなくて、下の方に降りてくるとようやく、言葉になる。

 

逆にそこまで到達しないと到底何を言っているかわからないし、私の感想もない。昔から本はすきなつもりだったがどうも頭で読んでいるような気がしない。

頭を使う、という意味においては本当にわたしは馬鹿だ、と思う。

 

 

 

私の文はそういうわけで言葉にはなっているのだけれど言葉なき言葉なんじゃないか、もともとみえないことを顕すものなんだから言葉って実体のないようなものではあるけれど、

頭脳型、もしくはなんだろう、骨盤よりは少なくとも上の方で発言をいえるような人たちの言葉の行き交いに無言になってしまう。

会話を交わさない者はそこにいてもよいのかとそういう場にいくといつも躊躇してしまう。

集会のような言葉を交わすところでであれば集まれば意見を求められる。そうすると真っ白になるか、もしくは思いもしないことを言ってしまったり。

 

それから言葉にならない自分の中にある身体感覚を言葉にしてくれている先人がいるかもしれない。と期待して先人の言葉に長けた人の書物を苦労して読む。

 

この話はまだまだかきたい事があるのだけれど、いつまでたっても次がでてこないのでこの辺で一旦止める。

続きはまた。

 

 

 

 

 

 

 

good morning

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茶の花

 

 

 

Here on the pulse of this new day
You may have the grace to look up and out and into your sister 's eyes and into your brother 'a face, your country and say simply very simply with hope
Good morning

Maya Angelou

 

 

 

 

英語圏の人にとって挨拶は祈りである

らしいよ、とさっき息子が英語の勉強していてつぶやいた

Good morning 

あなたによき朝が来ますように

来る日も来る日も

Good morning

よき日であるように

 

 

この月曜の朝、個人的には本当に本当に何もできなかったので選挙の結果をみて

一方でローカルに良きニュースがあり、一方でこの国の行く末を思い落ち込んだ。

 

最近情報を制限していたのでfbでの情報も入らずたまたま近所で友人があつまるよと、連絡もらって選挙翌日、くらしとせいじカフェという集まりへ。こういうところにも遠ざかってた。

 

遠くにいると距離を感じるがこうやって膝つきあわした中で、それもこの選挙で大活躍した友人たちの、えらそぶらないよもやま話をきいて笑ったりしながらも、さて、私には何ができるんやろうと半分頭をかかえながらバランスをとっていく。

 

今回、周りでは政治はじぶんごと、という言葉をよく耳にした。

 

オールオキナワ、ソウル市長選、たたかって勝ち取っていった成功体験例の話。

 

そこへの道のり、手法を教えてもらうこと、また今回はたして思った通りな結果になっていないにしても、この短期間にいままで手を繋がなかった人たちが手を繋いだ事実、立憲民主党をたちあげたこと、また表に出てこないひとたちのサポートetc

しろ、くろ、じゃなくて成功体験を数えてみることも大切、、と年上のおじさまがおっしゃる。

 

それと反省もふまえて選挙がはじまる!からはじめるのではなく普段からのお茶のみ話にじぶんのこととして政治の話、社会の話をもっと自分の身丈に下ろして話すこと、、理解すること、、。

 

むつかしくしてしまわない仕組み、情報過多ゆえに、そこに踏み込んでいけなくなってしまわないようにすること、いうだけにならないようにしないと、、

 

と思いつつ本来の意味での、グッドモーニングといいながら、あきらめないで祈りのように希望をもっていく。

 

 

say simply very simply with hope
Good morning!

 

 

奇しくも月曜の翌日は学校の立ち当番で、大勢の子どもたちが挨拶してきた。

数年前は挨拶してこなかったのになあ、、と地域の子たちを誇らしく思いつつ、私もみんなが笑ってられるように挨拶を交わした。

 

 

#中の人ありがとう大作戦

#くらしとせいじ

#mayaangelou

 

八つの話 .8

'一雨'

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雨の跡
潤された森の中で
私は一枝折りそれを道標にした
その枝からひとしずくひとしずく
苔むしったところへ雨が垂れていく
その場所で、またそこから流れて
大きな流れになることをその雫は知ることもなくただただ大地の力にゆだねていく

私の足音がしばし止まって水の「足音」を聴く
そしてしばらくしてまたその水音と重なって私はふたたび歩くだろう


土になろうとする葉や草をふみならす

 

その重なりあった音が
旅の栞のようにいく先を示す

私のあるくその一足一足が
枝から落ちるひとしずくとひとつになる

 

一は一であり、全だ
全はまた上昇してみえないほどになるがまた一となっていく

八つの話.7

'親しくなる'

 

 

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山葡萄が届いて夏の八ヶ岳の記憶が蘇る。あのストーブはもう毎日炊かれてることだろう。

、、、、、、

 

近づいてみると遠くなるような気がして

憧れのままで距離を置いておくものがある

 

山のようにそんなものはあって

けれど興味のある分野はたくさんある。

草木の名前や星座なんかもそうで、近しい人が詳しいと自分がいたたまれなくなって逃げ出したくなる。

 

なので一向に詳しくならないのだけれど好きだし薄い層が重なるようにはなってるような気もする。

 

そんな衝動に駆られなくてもいい人物や環境に身を置いていたらいいのに、と思いつつ単にそうだ私はそういったものとどうにかして親しくなりたいだけなんだ、と我にかえる。

 

人間には必ず共通項があるのだそうだ。

それと同じくして惹かれていく場所の手がかりとして植物に名前があるのならそれをおぼえることで親しくなっていくようなきがする。

おぼえようとする憂鬱(人でいうなら第一印象とか)を超えた先にある喜び。

 

先日、これは蘇芳ですよ、という植物に喜喜として染めようとしたけれど調べてみるとそれは花蘇芳でいう別の植物で、いわゆる鮮やかな色はでない、とものの本には書いてあった。けれどやはり染めてみようと久しぶりに植物を、染めてみる。

そうすると私と、その花蘇芳は親しくなる。

花が咲いていなくて、葉をみてああ花蘇芳、とわかる。

少しずつそんな風に親しくなるためにはやっぱり手を動かして親しくなれるか確認していく作業が必要なんだろう。

 

山を歩く、でもいい。

ひとつおちたどんぐりをひろって家に帰って何の木から落ちたのか考えるのもいい。

 

親しくとなる、漢字がおやという意味であり、立って木から見ると書くことにもなにかそれ相当の意味があるのだろう。

 

私は仕事として教えられるほどにはならないだろう。ましてや教えることは苦手だ。けれど実際教育という現場において、大人ができることは環境整えるばかりで、教えることでなにか得ていくかと思ったら違うのだと思う。

 

登れるように励ますよりも登れる木を探してまず登る楽しみを味わうこと。

 

同じ環境の中で共にいることでこどもがそこから学びたい気持ちを立ちのぼらせること。

 

親のやることはただ立って木から子を見る。

私も、やんわりとそんな感じで目に見えない親のような存在を感じつつ自分の親しくなりたいところへ行こうとするのだ。

 

#花蘇芳#山葡萄#蘇る#

 

 

 

 

 

灯すこと供えること

 

 

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10月1日

父親の命日だな、とはじめて意識しつつも7年たってもやはりそのまえはやたらと心身の調子が悪くて、今ようやくぬけているところ

あまり眠れず2時すぎにおきてはろうそくを灯す。秋は特にいただきものや、森や庭でなるものがあって

とっては飾ってみる。

命日がすぎて、気づくとろうそくを数日ともしていないことに気がついた。

 

これは「させられて」いたのだな。

させられていた期間をすぎてあらためてまた灯してみようかと思ってみる。うんしよう。

 

 

昨日は大切な友人夫婦の赤ちゃんをはじめて抱いた。

イネイト、という自然に、、という意味合いの自然治癒力を促す療法があって、その帰り赤ちゃんに出会ったのだけれど、その療法をうけているときと全く同じ身体感覚を受ける。

心も喜びでいっぱいになっていく。

そして祝いたい気持ちで溢れてくる。

何もできないただだかれるままにいる赤ちゃん。それだけで完全な状態。自分も誰もかれもが通ってきた状態。

懐かしさのような、喜びと心地よさを感じる。

 

 

ふと思ったのは誕生日を迎えて、ろうそくを灯すこと、またお祝いをする人に対してプレゼントをしたりすることと、また死んでしまった人に対してろうそくを灯すこと、お供えをすることは相反するようで人が生きる上で必要なことなのではと考えるようになった。

 

お祝いしたいきもち、偲びたいきもち

どちらにも灯をともしたい欲求となにか供えたい気持ちが生じる。

 

先日キペルスパピルスのライブで、友人の誕生日ということがわかって誕生日の歌を歌った。そのあとにルイアームストロングのwhat's wonderful worldという曲を訳した(アーサービーナード訳)すばらしいみんな、という曲を最後に歌った。

 

びっくりしたのだけれど歌いながら英語も日本語も歌詞が腑に落ちるようにしみこんでくる

1人の人を祝うことで、自分の中にある祝祭というか生きる喜びが湧いてくる。

 

中にはもう会えない人もいる。

生きている人たち、残された人たちの中にある偲ぶ心と、生きる喜びが綾のように折り重なっていくのが本当に本当にしみじみと感動したのだった。

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満月の雨とはうってかわった湖北どっぽ村の暮の扉にて

 

#キペルスパピルス#暮の扉#ルシエル#イネイト#木通

 

 

 

 

 

八つの話.6

'人生の装備'

 

 

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石川直樹の本で装備、がタイトルに入る本がある。

 

また違うけれど昔読んだ池澤夏樹の本でもスティルライフというのがあった。

 

ミニマリストというのも流行っているらしい

 

最小限の、けれど生活できる範囲で自分らしさをつくりだすこと。

 

 

山行はたまにしか行かないから何が自分にとって必要か、なくてもいいけどあったらよかった、が感覚的にいつも忘れてしまって帰って来たら今回はメモをした。

 

変わっていく体力や嗜好も変化していく

不食をされている方の動画をみたとき、

その方は登山する時の食料の荷物の多さが嫌で山では極力食べない、から日常でもそうなっていったそうだ。

(その方の運動量と食事の量は比例していない。。)

私の荷物も、確かに行きと帰りでは重さがだいぶ違う。

 

 

 

山だからこそ簡便なものをあえてそこは普段通りに行こう、と考えたり、お茶もティーバッグでなくリーフでもっていったりと譲れないところは譲らずない。

 けれどかといって服は着替えない。身体もお湯であらえたらまだいい方で、下山するまで入らないことも覚悟。

 

昔から体力はなくて山行の終わりや合間がすきだ。

ではなぜ故いくの?となるとそこまでしないとある一定の空気やふるいにかけられない。

 

 

映画をみに映画館へいく

映画はいまや家で見ることもできるけれど電車に乗ってわざわざいく

 

音楽や絵画もそうだ。平面的なものをではなく三次元、四次元、Live、生きたものを味わいにいく。

とてもそれは贅沢なことだけれどそうしたくなるのはそこに自分が体験したいスイッチがオンになるかもしれないからだ。

 

 

今朝はひどい感情のままその感情を抱きしめてペンを片手にノートを開いた。

 

 

 

それがたとえば瞑想だったり走ることだったりするのかもしれないけれどなにかしら自分をよきものへ導く装置をつくりだすこと。

 

 

実は昨日映画をみたあと、このブログに似たようなことを書いていて今朝おきたら文章が消えていた。

ある意味ショックなのだけれど、

映画の追体験のようだと認識すると少し、どころかかえって喜びを感じた。

 

(映画、パターソン。ジムジャームッシュ監督。主人公が平凡な日常の中で綴っていた詩のノートを飼っていた犬にボロボロにされ見るも無残な状態になってしまう。

ショックで外出すると詩人と称する永瀬正敏が白紙のノートを最後に渡す、、、)

 

詩をかくことは自分にとって喜びであるし、あとあと自分でみること、もしくは他の人にみてもらうことの喜びもあるのかもしれないが、一番の目的は白紙のノートに

自分から発するものを記していくことでまさにその時生ずるなにかなのである。

 

ノートとペンそれも装置であり装備だ、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

t h e e s s e n c e

ハービーハンコックの比較的新しいアルバム(と思っていたが15年以上前にでたもの)を久しぶりにきいた、チャカカーンが歌っている(the essence )

 

いきなり

 

あなたは自分の数字をしっているの?

 

 

と歌い出す。

 

自分の中につきつめれば何があるのか何に長けているのか何に向かっているのか。

 

、、、、、、、、

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一年前にであった彼女は集まりの中でも奥の方で一心不乱に繕いものをしていた。その時は趣味の範囲だったようだけれど(すでに見た感じは趣味の範囲を超えていたけれど)一年経つとカタチにしていく彼女は絵画と刺繍展を開催した。

 

ありがたいことに期間中のちくちくカフェによばれて私たちのバンド、キペルスパピルスで演奏してきたのだけれど

そんな中でもずっと

 

チャカカーンの、私の中にあるnumberは なんなのかという問いがただよっていた。

 

いやnumberというかsignというか。

わたしの中にあるものを数値化したもの。算数のレベルですでに得意ではないのになぜか数学に惹かれるのは、記号として私がどんな風に存在するのか、表面的にみえるもの、DNAレベルで粒子のごとく細かくしたわたしは?とない頭で考える。

心で計算はできないものかと考える。

 

 

ただの紙片である「キペルスパピルス」に偶然もしくは必然に、文字のようなのが刻印がされていくように、問いをたてるときに向かっていく答えへの旅のようなもの。

そうだ、それだ。

 

奇しくも彼女、みるまにの個展の名前はたびたびなのだ。

 

みているまに、たびたび

みるまにみるまに、たびたび

 

 

魔法のことばのように唱えてみる

 

やっぱり輪廻転生は信じないが、それでも物理的に先祖からつづく命の連なりには数字のような羅列、エッセンスがあるはずだ。

 

親を否定肯定しようと、自分を否定肯定しようと、そこに連なる情報はしっかり存在しているわけで、こどものいる私はまた次へとエッセンスがつづいていく。

本質的なものは連綿とつづいていくのだ。

、、、、、、、

 

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青の問いに、緑で答える

 

昨日の個展のあったパン屋さんに置いてあった本を何気に開くとあった。

チベットの格言のようだった。

 

 

青に対する答えが青だとおもったら違うのかもしれない。

 

青に向かって旅する道中で出会うエッセンス。

そこが緑への答えであったとしてもその道中の旅の体験で私は満足を得るのだろう。

 

 

気に入った刺繍のブローチを手に入れて帰った。そこには数字の5のイメージの刺繍が。

私は問いをもちつつ旅をしながら5にむかっていくのか、

でもそれが着いたら3であろうと4であろうと構わない。

大切なのはその道中、旅のあいま、みるまに着いてしまうそのプロセスなんだろう

 

 

 

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#みるまに#キペルスパピルス#undertree#sowhats#イルチェロ