synchronicity
を日本語に訳すと共時性、という
家族になった人、友人、遠くなった関係もあるけれど、時空すらも超える中に、共に時をすごす感覚をもつときがある。
たいていが良きことにだけど、むしゃくしゃした気持ちに私がちょうど数日前なったときにそういう棘のようなものが出やすい人が目の前に間接的に何人か表れた。
天候とか暦とかのせいもあるかもしれないけれど、自分のその、トゲっとした感情の鏡がそこ、ここに映されているような気がした。
いやだなあ、といやな感情に対してどんどん餌を与えている。
類するものが巨大になっていく。
synchronicityをいい意味として新たに意識してみる。
よい、も悪いもない、そこには愛だけがある。そう思うと、私のトゲトゲにも、傍観してああ、トゲがあるんだ、と幻のように見ることができる。
良き事の共時性があふれだしても、そこに感謝しつつ
もしかしたらしんどい事の共時性もそのとき私には必要で、よくよく観察すると愛に溢れているのかもしれない。そんな風に思えてくる。
最初はたまたまだと思っていた関係も、2度3度と偶然の一致が重なれば重なるほどわくわくという名の愛があふれてくる。
よきものにも、わるいとされるものにも。
「こわいものはなにもありません。そこには愛だけがあるのです。」
こどもたちと園で帰りに祈ることばをおもいだす。
禅のことばにも両忘という、ぼんやり私が考えてたことをあらわす言葉があるようだ
全き愛は恐れを締め出す
これは聖書の言葉
くらやみと判断してしまういまの世の中にできるだけ想像してみる、全き愛。