かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

仮の住まい

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月の明るい風の夜に

 

魂を、その仮の住居から遠くへ運び 

 

目は光の世界へさまよわせる 

わたしの一番のしあわせ

 

わたしが消えてほかになにもなく

大地も海も、雲なき空もなく

 

ただ魂だけが無限のひろがりを

駆け巡る時こそや

 

                            エミリーブロンテ

女はみんな生きている

n’s cinema roomよりreport 

 

 

コリーヌ.セロー監督

Caos

邦題女はみんな生きている

 

知る人ぞ知る、美しき緑の惑星の、監督。

 

 

 、、、、、、、、

平凡にこなしてる日常の中にもそんなもんだと半ばあきらめつつすごしている

そんな女。

 

非情な日常だとしてもいつかぬけだしてやると画策しつつも

あきらめさせようとする圧力

希望を忘れない知性も砕けそうに、暴力に瀕死の女

 

そんな2人が路上で出会う

 

混沌としたなかにも激しくフロントガラスにうちつけられた女と、流血

 

横にいた夫はショッキングな出会い方にさえ蓋をする

車をロックし、洗車すればすべてなかったことになると本気で思う。そして世の中そんなもんだ。

その蓋の仕方に日々、日々しょうがない、こんなもんだと思っていた日常のおかしさに妻は気づいてしまう。

 

ドラマティックな人生を送ってきた若い女性の混沌さが目立てば目立つほど、平凡に生きてきた妻の隠された悲哀や夫の母の存在もないがしろにする忙しさにかまけた「息子」たち

 

瀕死の女性が生を取り戻していけばいくほど

妻の家庭の危うさ、混沌さが露呈していく

いや見た目には圧倒的に瀕死の女性からみたら平和だ

けれどそのぬるまゆい「平和」に隠されている

愛の反対語は無関心であるということを彷彿させる気づきの、ちいさな点、点、点、が結ばれていく。

 

 

 

 

男たちが強さを保持するために使う暴力も、自分もそれに縛られていることに気づかないふりをする女

 

脱エジプトの途中の苦しさに前の方がよかった、よいに決まっていると思ってしまう危うさと構造

 

女は瀕死の女が気になる。

そして彼女と生きる

 

男たちはふと気づく瞬間もあるが

どうすればいいか途方にくれる男

気づかないまま死にゆく男

騙されることに悦楽をおぼえる男

その幻想のまま現状がどうなってるかわからない男たちをあとに

 

 

海辺の家に辿り着く

共に座っている満ち足りたおばあさんの顔が印象的だ

 

私の周りにいる男性たちはこの中の男性たちとは違うのだけれど構造的におちいりやすい、また陥ってる社会の構図の突破口のような清々しさをおぼえた映画でした。

 

 

 

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dans le jardin

 

写真は四月に予定しているdans le jardin  のeventのimage

映画の中の海辺の家に少し近い?

 

庭から続く湖岸が心地よかった。

春。

 

 

 

 

庭の中

 

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年が明けてから友人からお誘いがありギフトボックスを数名で作ることになりました。

 

コンセプトやどういう風にギフトを作っていくかを考え、またそれを具現化していく作業をみんなで作るのはすてきな時間でした。

 

 

 

バレンタインというのはひとつのきっかけです。

義理チョコはやめようという某有名チョコレートのコピーもみましたが

 

本当の意味で自分を愛すること。

自分にプレゼントするもいいし、誰かにあげてもいい。

 

贈り物の名前をいろいろ考えたところ庭のイメージがでてきて

dans le jardin という言葉にであいました。

訳すると庭の中

 

さらに調べると同じタイトルにドビッシーの曲。

印象派のイメージとも重なる気がします。

 

庭は誰の中にもあるのです。

 

ドビッシーの、印象派には詳しくないけれど感覚的には近いものを感じます。

 

 、、、、、、、、、

冬の庭はまだ寒々しく、花も少ないけれど鳥はなにかを求めて私の庭にたずねてきます。 

偶然なのか

それとも神さまのはからいなのか

鳥が落としていった文のようなものから

植えた覚えのないもの

いままで憶えのないものがふと私の庭の中に

 

いつもよりも感覚をすませて

みたり、感じたりします。

 

 

手紙の中にはそんな風にいつもよりも自分をていねいに、そして立ち止まって

 

たべるにしても、のむにしても

音楽を聴くにしても香りをかぐにしても

ていねいにひとつひとつを手にするように触れていく

 

箱の中にはそんな風な時間をすごせるようにと祈りをこめてつくりました。

 

 

 

私の大まかなイメージをいつも具現化してくれるあさちゃん。今回もため息です。

 

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お誘いしてくれたハチヨコ製菓の陽子ちゃんのケーキは他ではあまり食べたことない繊細かつ美しいお菓子

 

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そして。まだお出会いしたのも数回なのに懐かしくも美しいともちゃんのつくる、イメージをこんなにひきだすものなのか、と驚くsou.filのハーブティ

 

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ハーブは2種類。

それぞれのブレンドに私も名前とちいさな詩をつけさせてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

water of January

 

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年の暮れからどうもこのメロディが離れない
ボサノヴァという名前の自転車との出会いからやらねばならぬ、と息子が急にイパネマの娘という曲のギターをやりはじめてからあらためて私もまたボサノヴァをききだした。
小野リサからはじまって、父親のもっていたジルベルトのレコードをひっぱりだすまでもなく怠惰にyoutubeをきく。


そもそも曲名を覚えない私は散々聴いた曲でも知らないことも多い。

あらためて、これすきだなあ、、と思った曲。

なんとかして検索したのは、
三月の水、もしくは三月の雨というものだった。

 

(先日もノラジョーンズの曲で一目惚れならぬ、一目聴きしたのも、検索してもらったらDecember という曲だった。

余談だけれどカレンダーライブができるかも。。)

 

メロディも、軽やかだし歌詞もテンポよく、一見するとポップな曲に感じる。
でもなんだかそういうことじゃない気がして作曲したアントニオカルロスジョビンのことを少し調べる。

一度有名になってしまったものの私生活が破綻しかけたジョビンが数年後這うようにたちあがったときの、春の芽吹きのようなくらやみからの希望を感じる。

何気ない日常の、本当に些細な発見にこそしあわせがある。大きな成功やだいそれたことが幸せなんじゃない。

けれどそんなささいなようなものを実はだれかれも少なからずもっていてそこに共感が生じるのだ。

 

 

植えていたことをわすれていた球根の芽が霜柱の間からでてくる。

山にいくと雪解けの水がちょろちょろと小川となって流れる音。

遠くの草刈りのエンジンの音。

 


喜びの、根底の地中感。暗闇。

 

3月

年が開けてあと2ヶ月後にくるその日。記憶も遠くない、必然とその日のことを憶い出してしまう。

繰り返される春の芽吹き、私が泣こうがわめこうが、へこもうが陽は昇りまた暮れ、月はのぼる。

ああ情けないなあと思いつつもその心のスペースに月の美しさを感じる

怒りの山の向こう側にあるスペース。

YESもNOもなく


山も歩きたいな
と思う。
、、、、、、、

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休みもあって翌日近所の山へ行った。
まだ冬の只中だけれど
滝に向かって登る途中、途中、滝から降りてくる小さな沢をクロスして歩いていく。

娘がしりとりをしようという。
歩いてる中で目にとまるものの括りで言葉をだしていくその単語はまさに
三月の水の歌詞そのものだった

小枝、ぬかるみ、鳥の囀り、木漏れ日
落ち葉を踏む音。
小雪、光、犬の声、吐息、せせらぎ
走る足音、、、

 

 

一月の水

 

 

今年もささやかな、けれどそこにこそ価値を求めて生きていきたい。

よろしくお願いします。

 

#青文字

 

年の瀬

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年の瀬

一年が変わる時
年齢を重ねる時

往く年、来たる年

年の瀬、、
瀬ってなんだろう、
瀬をはやみ、、、
と意味も曖昧のままつぶやいてみた

誕生日を前日にした夜息子はバースデーイブを静かに楽しんでいた。

 

 

もうすぐ一年が終わろうとする18年前の今日産まれてきたひと。

産まれてきた祝福を思う前に私はその、彼を産んだ年の瀬を思い出してみる

 

 

自宅出産を夢みて近所の産婆さんというにふさわしいおばあちゃまの助産師さんにみてもらっていた。
あなたは安産よ、といわれ友だちのお産も手伝ったりしていたが突然の破水。
破水がなにかもわからないままNICUのある京都の病院まで救急車

うまれてはじめての手術を経て絶対安静で1ヶ月ベッド。。陣痛抑制剤に悩まされながらもクリスマスにはもう薬も効かなくなって陣痛が数日続く。
朝の検診の直後急におりてきてる状態で緊急帝王切開、、

 

当時は携帯もなくてもちろん公衆電話まで歩いてはダメで、やりとりはファックスか手紙。学生あがりだった若い母親の救いはまだ大学時代の友人たちが近くに数人いたこと
家から遠かったけれど運ばれた病院がバプテスト病院で精神的にかなりすくわれたこと。
ベッドから窓から見えるはずの大きなクリスマスツリーを
みることもできなかったけれど
何故ここに運ばれたのか不思議なほど整われた1ヶ月だった

 

 


産まれてきたちいさなちいさな嬰児は本当にちいさくてすぐにNICUへ運ばれていった。
休養の必要な私はすぐにはみにいけずに翌日車椅子でおとずれた
ちいさな赤ちゃんたちが静かに箱の中で眠っている
厳重に消毒した私の前にチューブベイビーといわれる管だらけの息子。
7ヶ月はまだ身体ができていない。
ガリガリの赤ちゃん
私の親指ほどの手のひらを、まだ抱くこともできない管理された箱の穴に手をいれてみる。

 

 

ちいさな手は私の差し出した指をぎゅっと握りしめたのだった

 

 

母乳は吸うことがまだできないとされていたので子がいないままに牛のような気持ちになって搾る。
辛いのだけれど、出産までの辛さのあとにある身体の多幸感が私を支える


産まれてすぐ未熟児特有の脳や心臓の疾患宣告目もみえない可能性があると言われつつも
彼の中にあるその、握りしめる力強さに不思議と何も不安はなかった。

うまれながらにしてそうやって人とは違う冒険する状況、またその状況に向かうのは今も同じなのだけれど、今よりも産まれた時の方が何かこう心配がなかった

それは祈りの力だと思うし、実は今もそうなのだと書きながら思う。

 

滋賀県からNICUがなくてたまたま
運ばれた病院には礼拝堂もあって、
そこのチャプレンが彼の名前を決めたとき仰ったことをいつも思い出す


「神と自分との関係が経糸、横糸というこれからの人との出逢いの中で人生を織っていくのですね。」

 

 

両親しか入れないNICUに入ることのできたチャプレンは

自宅に戻って毎日もいけない私に代わって祈りにきてくれた
もちろん当時沢山の方に祈ってもらった。


いろいろあるとはいえ、今の彼は祈り支えられてるな、と思う。

普通コースはもう、うまれたときからない。
普通ってなに?とつっこみながら
なかなかに面白い歩み。
悩みながらも動くときはびっくりする動き方をする。

 

 

今年はそんな風に思い出しながら

桜の季節まで入院していて最後、彼の横にいた女の子をおもいだした。

ミラノちゃん

ご両親はイタリアがすきなのか?と夫と話した記憶。

 

 

 

今年自転車でイタリアに行くなんてそのとき誰が思っただろう。

 

 

 

 

18歳がはじまる

祝福がありますように

 

感謝。

 

スカボローフェア

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スカボローフェア

 

 

この歌の旋律と歌い継がれるのは香りなのだ

 

すでに過去にかいだ記憶の中で、いままでにかいだことのない香りが自分の何かとリンクしていく

 

何かのまじないのように

その香るものを口ずさみ想像する

 

ああうれしい、という気持ちのとき。

ああだめだ、という気持ちのときも

誘う香りの向こう側は

 

森のような、手入れのされた庭のような

その感情を溶かす心象風景

スカボローがどんな場所かは私にはわからないけれどきっとパセリー、セージ、ローズマリー、タイム

日本でももう認識の高いその草の香りがたちこめる場がきっとあるのだろう。と想像したりもする。

 

戦争に行った大切な人、旅に行って戻ってくる気配のない人

待つ者が、行くことのないその「スカボロー」を思いつつ祈っている

 

きっとその香り立つ草を想像していればどんな場所でも大丈夫、と。

 

繰り返しのメロディの中の、繰り返しのリリック。

 

風はおこってはまた消えて流れていく

薫りもその風にのってむこうからあちらへあちらからむこうへ届くのだろうか。

 

 

、、、、、、

 

room最終章終わって、10日ほど。

実は昨日キペルスパピルスのライブもさせてもらって

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気持ちがそちらと混ざり合ってしまっているのだけれど

 

この空間のテーマとしてやっぱりherbがあるのだな、と感じる。ローズマリーの魅力に気づかせてくれたのもこの店のメニューからだし、冬はコトコトとハーブの束が鍋でかもされてる。

だされる水も

 

気になる植物は遠くのものであっても自分の近くに植えてみようと牧野博士もいう。

 

身近なのだ、けれど気づかない存在や小さいものにこそ偉大な魅力があったり

そんなことを気づかされる

近くで、、遠くを想う

たまには遠くにでかけたい欲も出るのだけれど妄想のように

本の中で、音楽の中で、家の近くの野原でその場を感じつつも遠くを感じる。

 

マニアックはやっぱり似合わないしなれないのだけれど私は私でいいのだと、

たかが、いや。されど小さな草の作用に圧倒される

 

 

わくわくする方へ

 

そんなこといっても、と

蓋をしてももれてしまうその香り。

 

しょうがない

それでしか生きられない