かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

与えることはなくなることではない

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 今回園のバザーで短いお話を憶えて素語りさせてもらいました。  

 

読み聞かせでよむのとちがって体にも言葉を落としこむ作業のなか、このグリムの星の金貨というお話を何度となく反芻した。

 

 

ちいさな貧しい女の子は歩いていく中で出会う人、出会う人にどんどん何もかもあたえ尽くしてしまう。

 

なにもなくなってしまった、暗い森の中で彼女はなにを感じていたんだろう。

 

 

どうして貧しさの中にある人に神さまはあえて、与えるということを課すのだろう。

 

 

彼女があたえ尽くした暗闇の中。

 

おはなしをしているとその情景がふっとあらわれるときがありました。

 

不思議なのだけれどそこに彼女の中に悲壮感がない。与え尽くすことの達成感すら感じる。

 

「かみさまを信じる心を彼女はいつももっていました。」

 

 

かみさまの何を信じていたのか。

 

自分が与えられているものはかみさまから来たもの。かみさまは豊かな方だ、という確信。一見自分をすりへらしているようにみえるけれど実際はその真実を信じる心で満ちている。

 

 

「天から星がいっぺんに降ってきた。それはまばゆい光をはなつ金貨となった」

 

外側の状況に左右されず信じるとその豊かさが目に見えてやってくる。

 

 

女の子の、かみさまを信じるということは豊かさの根源とつながることなんじゃないか、と

 

語りながらふと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

breathing


10月1日




私の父親がなくなって早6年。

6年前、父親と理由があって会わなくなって8年が経とうとしていた秋口、私は精神的に結構きつい状態にありました。

その状態になにかしら原因とか、理由づけすることはできるけれど、もしかしたらそういう父親のことを無意識のうちに身体で感じていたのかもしれない。

私の体調を気に病んで母親が子守にきてくれていたのに翌朝、起きると母が居なくなっている。

連絡するとそういうことだった。

ちいさな葬式をあげた。夫がギターを弾いて賛美歌を歌った。父親はクリスチャンではないけれど。

やっぱりこの時期になると具合が悪くなる。そして母から今日は命日だよときいて思い出す。

写真を飾ることも墓参りもなかなか行けなかった。

父が亡くなった1年後ある整体の先生に身体をさわってもらった。

ちょうど今から5年前。
すぐに、、父親に手紙を書くといい、といわれた。

私は本当にびっくりした。父はなくなっていることを伝えると、なおのこといい、出さなくていい手紙なのだから。

泣きながら書いた。文章にならなかったと思う。会いたくないと、蓋をしていた心が蓋を開けてしまった途端どよめくようにわっとでた。

その後何年かはよくガラスのように繊細になっていた。何か傷つけるものがあったのには間違いないが、傷つきやすかった。



この夏の父の誕生日にふとその重いものが軽くなった気がした。

ゆるし、という言葉がふさわしいかどうかわからない。でも留まっていたなにかがふっと蒸発したような気がした。

命日すぎて、昨日庭の秋名菊がようやくさいた。

父親に飾ろうとおもった。

やっと思えた、と思った。

散々苦労かけられただろう母は、毎年命日を覚えていて毎年今日だね、と連絡してくる。記念のごはんも食べようと誘ってくる。
私がわすれてしまうのは、無意識に忘却機能が作動してしまっているからかもしれない。

しかし命とはほんとうに大きなものだ、と実感する。

私は父がいなかったら存在していないのだな、その関係性を否定したい思いが自分を否定したい思いに発展していくこともあったけれど、
それすらも昇華する次元がある。

息を吐いて人間はうまれ、息を吸って死んでいく。

呼吸は毎回毎回うまれては死んでいく、の繰り返しだ。とふと思った。

鐘の音



いつもより早く目が醒めると、遠くの方で鐘の音が聴こえてくる。


その安堵感は一体どこから来るのだろうか

ごおん、という鐘の音。

すっと屋内でもすすき野原で1人ただずんでいるような気持ちになる。


(鐘の音に導かれて、憧れて教会に行きはじめた、とはつめさんは言っていた。)

導かれる何かをかんじる。なんというかひとつのその音が身体に染みいるのはなぜなんだろうか。


いつもあるのだけれど、あるんだ、ということを意識、おもいだせてくれるひとつの響き。

それはシンプルな音の方がよい気がする。

単音の方が響く。響きわたっていく。

共に在ること

自動的にときはすぎていくけれど、共に在りつづけることは自動的にはすぎていかない。

静かなときもそうでないときも、幸せな気分のときもそうでないときも、笑ってるときもそうでないときも。


居続けることができるのは本当に本当に感謝な事だ。

go straight/in a silent way





何もみえない暗がりの中に入っていく

いかに視覚にたよっていたのか、よたよたしながら入って声と壁をたよりにたどりついて、しばらく暗闇の空を視る。

なにもみえない

みつづける

なにもみえない


それが


みえるようなきがしてくる


もしかして明かりがつきはじめたのではないか。


大きな窓のような薄暗い光を感じる。

前へどうぞと言われる

ひとの顔も認識できるほどの明るさ



しかし



最初から照明は決して明るくなってきてはおらず、なにも明るさは変わってない。という。

真っ暗闇に通されたとき、恐怖に耐えるためにいつかきっと明るくなるという希望がある。


突然の暗闇をこうやって擬似的に体験することはあるが、だんだん暗闇の中に目が慣れていくのとは逆に世の中は暗闇に少しずつなっていて目がそちらの方に慣れてしまうことがある。



あたりまえのあかるさ、あたりまえのくらさ



あたりまえのよろこび、あたりまえのかなしみ



まるでそれはネガティヴでもポジティブでも、慣れたら大したことないかのように順応していく





芸術の、意識的な装置に身を置くことではたして、私のいる場所は、あたりまえなのだろうか。と疑問に思う。


以前にもきいた(ひっくりかえす)という言葉。

ここでも島を離れる前にきいた


私の視ているこの木は私の外側にあると、あたりまえに感じているがもしかしたら内側にあるのかもしれない

かなしみは、私の内側から発生していると信じて疑わないけれどそれはもしかしたら私の傍にあるかもしれない


何かの装置、何かの場所を通過してみて、

信じていた何かが全く違う位置にあるのを感じる。

辺境へ辺境へ、旅をして私の場所をさがそうとして帰る場所にそれがあるのに気がつくのは、


そういった

ひっくりかえり

の作用が辺境の場所でおこる


日常に戻ってその
(ひっくりかえり)をまた信じられなくなったときにヒトは芸術的装置に惹かれて、日常から離れて辺境へいくのかもしれない





ジェイムスタレル/直島、南寺にて

山、星、月、海


明るみに

山をみては星を思い、
海をみては月を思う

くらがりに、
星をみては山を思い、

月をみては海を思う

月は海を照らしてる

星は山に流れていく


ならば私のこころよ

くらいときにこそ流星がごとくの一筋の光をおもいおこせ

明るさの中に
月の光を想いつつ漆黒の海のように鎮まれ

地下通路


草の根、って言葉があるけれどもっと深く、地下通路があるのではないか、と思うときがあります。

ここと、ここがすごく遠いのにさっとつながっている感覚。

一見、異なるものやむしろ真逆に感じる物や人とシンパシーを感じる。であった瞬間、道が貫通しているような。




地上の交通機関を使っているにもかかわらずどこでもドアよろしくその場にまるで地上の障害物もなくすっと到着するイメージ。

それは時空を超えて、20年かかって到着しても感じるときがあるくらい不思議な感覚なのです。



いくら同じ場にずっといても感じないのに、すっと到着したところで、あ、こことは地下通路で繋がってたんだと思う不思議さ。

昨日会った、しばらく会ってない友人とも(20ねんぶり、、)そんなことをおもった。道がたたれてると思っても繋がってたんだ

社会的な運動をしている人が連帯という言葉を使うことがあるけれど、連なる帯は大手のマスコミじゃないメディアで確認し人海戦術でツルハシをもってすすむがごとくゆるりだけれどつながっている。

いそがないといけない案件ももちろんある。あきらめそうになることも沢山、でも、こことここがスムーズに移動できる通路を先人が作ってくれていたり少しずつでもほっていったり。


表面的なことで右往左往しない。山を動かすようなことは目に見えない部分なんだといたく思った。