池末みゆき先生のライアーコンサート
子守り歌をいくつか弾きますよ、と仰った中に私が以前息子にきかせていた、一緒に歌っていた曲があった。
○ちゃんといっしょ、○ちゃんといっしょ♫
舌足らずな歌い方で歌詞もこどもの名前をいうだけのそんな簡単な替え歌風。
すっかり忘れていた記憶。よくうたってたんだ、、と先生のライアーの調べの中にそのころの感覚がよみがえってくる。
今ももちろん大切な存在なのだけれど、いまとは違う、大変ながらも密着した/世界は善で満ちていると/信頼しているちいさな息子の姿を、めにみえない調べの中に見た。
もしかするとそれは、自分の中にあるおさなごかもしれない。
よくこどもを育てると、自分のインナーチャイルドがうかびあがるというけれど、ちいさなころにきかせるわらべうたや子守り歌にはそんな作用があるのかもしれない。
ライアーコンサートはどちらかというと裏方で緊張していた中、この曲にはふいにやられて涙してしまった。
先生にとって一番たいせつにしていることは祈りであると、はっきり仰られた。
歌う事も祈りそのもの。特別な人が歌うのではなく、こどもにとってお母さんや近くで歌ってくれるおとなの声が尊い。
そしておとうちゃん!おかあちゃん!と幼子がさけぶのに近いような気がした。
距離のある関係じゃなくて、その懐に駆け込むような。
こどもたちがイエスのそばにいくのを弟子たちが止めるのを、このようにイエスがたしなめる。
「天国はこのような(幼子のような)者たちのところである」と。
大人として歩みつつも常に神との関係は幼子のスピリットをもちたい。
クリスマスはイエスキリストがうまれる幼子のシーンだ。
弱さと貧しさの中で、無防備なのだけれど光と祝福で輝いている。
それは、幼子のイエスが飼い葉桶で眠っているからこそきわだつ。
たとえ「いま」の状態があまりよくないように思えてもだからこそかがやくのかも。
わらべうたを幼いときに聴くこと、そしてまた大人になって子に歌うことは、自分の中のおさなごの性質にスイッチを押すのだと思う。
あらためて歌はいいなあ、、と感じてる。風邪で声があまりでないいま、歌えるのことのありがたさも。