かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

はだか/で/おどる

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来月、うむ人と題して踊る友人の踊りと歌のライブがあり、先日ワークショップ形式でつくっていく、というのに参加。

身体の部位と、身体の動きを無作為に抽出してその動きをそれぞれ考える。

 

封印していた何かがでた感じ。言葉でも音楽ともちがう、身体を動かすことの生きる力というか。

いま、家でまた布団で逆立ちに続いて娘のマット運動の内容ききながらでんぐり返ししたり、ぐるぐるしてる。

普段使わない位置関係、でんぐり返ししたときの、宇宙観。ふわっとする。

オイリュトミー(シュタイナーの身体表現)にも通じる。

 

さて

 

悩むことがあって自分では答えが出せないことがある。

 

心が苦しくて、かといってそれをノー!ということができない。

 

ノー、というのは簡単だが、そうなってもそうなれなくても心がついていかない。

 

 

いつも話をきいてくれたりびっくり仰天するようなアドバイスをくれる友が

 

大岩戸をひらくためにおどりを踊るアマテラスの話もしつつ、おどったら?という。それもはだかに近い姿で。

(それは半分イメージなんだろうけれど私の岩戸をひらくヒントなんだろうな。)

 

私がどうしたらいいかおもいあぐねている事柄もあなたの神さまにきけばいい、という。

 

そうだ、そうしてみようと意識をそちらにきりかえる。

 

(いのるというのは手にその悩みを継続しつつも、てばなすことだとふと思う。)

 

私にとっては聖書を読むということが答えをみつける手立てになるので

 

ひらきつつ、そういえば、といま私にあるwordはだか、踊る、で頭の中で検索してみる。

 

私は裸で母の胎からでてきた

また、裸でかしこに帰ろう

主は与え、しゅは取られる

主のみなはほむべきかな

ヨブ記1:21

 

踊りながら歌う者は

私の泉はことごとくあなたにある、と言おう

詩篇87:7

 

さてどうでるか。

 

cafe2

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常に失恋状態だ

というしょっぱなの友の言葉に

自分の中にあるなにかが共鳴してしまって、それどういうこと?ときくのだけれど説明できないという。

 

さみしさからはじめよう。というテーマの我が家でのブックトークカフェはまさかの本不在ではじまった。

 

「失恋状態」

 

話も終盤になってそんな言葉を発した彼がせっかくだしとおもむろにだしたのはけんかばっかりしてる不良漫画。ボーンと殴ったり殴られたり。それ以下でもそれ以上でもない。(そうじゃなかったらごめんなさい)

 

ああこの漫画のヒトたち、寂しいんやなあ、、と、はっときがついた。

 

さみしさを、ボーンとなぐったり殴られたりでなんとか解消しようとする(たぶん。)それを読むことで擬似体験もしくは身代わりに体験。

私自身はプロレスのたのしさを共感できなくてこの漫画でもそのさみしさを擬似体験できる自信はないのだけど、

暴力とか性とか死とか、って生きることへの憧れというか反動というか。

 

命がけでここにもきた、というてた。

私も結構命がけで行くところがある。

 

かつてはどこもそんなところばかりで

 

他の人にはそうでもないのかも、私だけおかしいと思いつつひとつの場所にひたすら通い続けたことも。身を守るために祈らずにはいられないところも。

 

でもなんで行くんだろう。いけにえになるために?

カナリアになるために?

 

思いがまとまらない。

閑話休題

 

 

相手がいての失恋だけど、相手に失恋してしまう私にも失恋。

ここで失望という言葉は使わない。

 

失恋ていう時点でまだ愛じゃないのか、愛なんて言葉日本にはなかった、いまの私はそんなものあるのか。

 

管となることでそんな失恋状態の私から、スポイト、もしくは寒天つくる道具のようになにかに上からおしだされることで解放されることがある。

 

いつもそれができたならさみしさから解放されるのか。

 

でもさみしさがあるからこそそこに到達できるのか。

暴力という言葉はすこしちがうけど上からの押し出しは暴力と近いのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

うむ人よ

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12/23朝(for 2/11)

 

胎内の充実

たましいをもつ存在がたましいをもつ存在を内在する。

 

二重の悦び

 

うみだす力、その生命を内在させる力はどこからくるのか

 

ワタシノハハノ胎内デアナタハワタシヲカタチヅクッテクダサイマシタ

ハレルヤ

 

誇らしげに膨らんできた身体の中心に、さらに中心がある。

 

何事も何事も小さく、あるいは大きく

大きさや形、種類を超えてうみだす力、

 

創造主クリエイター

に似せてつくられたものは

創造する力をあたえられている。

 

あなたはそれを認めていない

私にはないだとか私に少ないだとか

 

 

しかしそれは事実とは異なる

 

みてみよ胎内の中で少しずつつくられて、またそれをうみだす母を

 

産めよ増えよ地に満ちよ

 

それは決して単に人がうまれていく祝福だけでない。

 

人間の想像をはるかに超えたことをあなたはなし得ることができる、創造主からの祝福だ。

 

自信のなさにうちひしがれるとき、うみだす母をみよ

 

うまれたばかりの嬰児をみよ

その存在だけで実に創造性で満ちている

 

嬰児をみたとき、なにももたずにやってきているのに大人はそれを思いだしてよろこびを感じる。

 

あなたはうみだすことのできる人だよ

と言葉をまだもたぬ子が全存在でいう。  

 

うみだそうとしている母はただそこにいるだけで、それをもう知っているはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

イロノのことば

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そんな呪いのことばからはさっさと逃げてしまいなさい

 

劇中の、石田ゆり子のことばが年末深く刻みこまれた。

 

 

例えば私の場合、身体が大きいってことが固定して呪いのことばと現実になってる。

 

たまに集まる場で毒舌の人に心底憎くなるくらい落ち込んだときもある。

 

 

でもそれって呪いのことばを常に自分で自分に振りかざしているからこそ、引き寄せる現実と他人からの認識なのかも。また憎しみということでバッドスパイラル。スパイラルを逆転させてみよう。

 

そういうことからたまにフリーになったとき、意外と私はこの身体を気に入っていて、なに?わるくないよ?

と思うのだけれど。

 

 

身体的なことだけじゃないな、きっと。

自分の自信のなさや人と違ってたり、役に立たない、とか浮いてる、とか。

 

なんにもしないことが私の中でとても優先順位の高いことなはずなのに、やるせなさや、他の人ばかり褒められたりするとどんどん損なわれた感になっていく

 

でかいなーといわれるのは幼少の頃から。それがきっと、背が高くて素敵ね、だったらそのことを誇らしくおもったのかも知らないけれど、悪意に満ちたことばと捉えてしまった。裏返してみれば悔しくて嫌味をいったのかもしれないけれど、そんな憶測まで私にはわからない。

 

 

逆の妄想とマイナスの方向へその人がきっとそうおもってるに違いない、、とポツンとしてしまう。

 

それが個人的な経験だけじゃなく実は社会的なバインドだとしたら、、?と深くしずみこんでるときは頭の片隅にすら思わない。

 

 

のろいの言葉なんてとりかこまれるのはほんとう簡単で、そこにとらわれてると、え、わたしあなたのこと褒めてるよ?というのさえきこえてこない。

褒められてる言葉ももしや、嘘かも?と思う。

 

役にたたない人間だ、と思い込むのが特に得意な私は、役にたつにはどうしたらいいか?と考えてオーバーヒートしてしまう。

 

とりこまれる前にそこから逃げる。逃げるのもあり。

 

自分で自分の味方であると、のろいの前に自分の取りかこみを作るのもあり。

 

人によいものを祝福すること、喜びなさい、というのは私の防御なのかもしれない。

 

武井武雄の、イルフ(古い、の逆。つまり新しい)にならってイロノ(祝福)にしてしまえば、ヒトの傷つける言葉なんて表面的とケラケラわらえるかも。

林真理子も私を傷つける人は上流の人じゃない、って書いてたし。

 

悶々とした心の状態からのほうが気づきはおこると思うし。

 

友人の年賀には、ネイティブアメリカンの詩がかいてあった。最後にHO!って。

そんな感じ。ほ!!ってややこしい思いも声に出して祝福に変えていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

cafe

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20年くらい前(!)夫の実家にはじめて訪れたついでに金沢の街を歩いた。まだ21世紀美術館もない頃。いわゆる観光に興味がなく、未だに名所といわれるところはあまりしらないのだけれど、たいてい私はいくべきところには足が向くようになってる。

 

ふっと目につく、ビルの三階にある喫茶ローレンスの看板。

 

引き寄せられるようにドアを開けた。

クラシックがながれる純喫茶。

 

その頃はお父さまがオーナーで五木寛之もいたという、サロンのような場所。

いつの間にかお父さまがおられなくなって娘さんが店を切り盛りされてる。

 

今年も年中無休で元旦早々訪れた。

こどもたちも一緒にはじめていったら

たまたま誰もいない店内でオーナーの話が止まらない。改訂版干支の話、新しい漢字の話、「元気で長生き楽しく生きるためにどうしたらいいかな」ってかんがえてるのよ。と次から次へとアイデアと構想?妄想?話がでてくる。

 

お役人さんが国のことを大きく考えようとしてもちっともすてきなアイデアなんてでてこないの。

小さい規模で考えるのがいいのよ。学校なら私立とかでね、自由奔放に考えたアイデアと実践を採用していってもらうのがいいわよね。

干支もね、みんなでかんがえて作り直したらいいわよね、12なんてすくないわ。絵が得意なこども、お話が得意な人、本もつくってね、、。生きる力が湧くじゃない?

 

私、お店も年中無休だし、どこもいかないでしょ、いろんなことを考えるのよ。こうやっておしゃべりしちゃうのももしかしたらこの子たちがいつか高官になるかもしれないじゃない?こんなこといってた人がいたなあ、、って憶えてもらったら。。

 

日本の未来をよろしく〜!ドアの外まで見送ってくれた。

お客さんがいなかったのもあるけどこんな風にたくさんお話するのははじめてのこと。

 

いわゆる神社仏閣の初詣でに行かない私にはローレンスは初詣での感覚。

 

距離感がびっくりするほど縮まった年のはじまり。

 

小説かけますね、ここのこと。というと、じつはね、書いてるのよ!と

名画を左ページに貼り細かな字で右ページに絵にまつわるストーリーをかいた太いノートをみせてもらった。f:id:sallygarden:20170102081605j:image

 

1時間で一名画右ページ1枚をかくと決めてるそう。若干違うけど私がやりたいことを

元旦早々みせられた。

 

文化の自家発電力、充電力の強い場所。

たっぷりのミルクコーヒーに新年の希望を抱いた。

 

 

 

 

 

'p'ayforward

 

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ペイフォワードという言葉があって、たしか映画にもなってたけれど、自分が受けたものをその人にお返しするのでなくて違う誰かに次はギフトしていく、、

 

おととい息子の誕生日で餅つきのイベントで少し年上のPくんから本をもらっていた。

 

https://www.kurumed-publishing.jp/

 

本をプレゼントする、というのは学生のときはよくしていたせいか、そういうのをきくと胸がきゅんとなる

 

Pくんは地元の大学生で地域デザイン?みたいな勉強をしていたご縁でか、私も関わりのある地域によくきている。大阪から通っているとは思われないほどその地域のおまつりやイベントにきてはかかわりをもってくれてるみたい。こどもたちもおばちゃんたちもみんな彼が好きで、なにかと可愛がられている感じ。

 

そのスピリットがどこからきているのか、育った環境なのか、大学の先生との関係なのかよくは知らないけれど、息子に渡された本をみてなんとなく浮かんだ言葉がペイフォワード。

 

昨日の地域でのイベント、餅つきでも一緒に地域オリジナルかるたを作ったのだけど、老若男女いろんなひとがかるたをつくりにきていた。こどもだけじゃなく、大人もたのしんで絵札をつくりできあがったらおとなげなく!かるたをする。

 

だれもそれをビジネスでしてるわけでなくそういったつながりづくりのために、楽しみのためにきてる感じ。音楽の演奏もあったり、餅花のワークショップもあったり。

 

喜びをうけとって、次はどうするかな。

ペイフォワードが上手そうなPくんの来年の抱負をききながら

 

 

要石もしくはkeystone

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川があって、そこがいかにも美しくみえたとしても、その周りはどうか、みんなにとってそこは住みよい環境なのか、どうか考えて川の中の大きな石を少しずらす。ほんのすこしだ。

そうすると、山からの水の流れがよくなって、おのずと川の上の方にある山辺の植生もかわってくる。

 

環境さえ整えたらあとはあまり手を入れなくてもそこは循環していく。

 

息子がそれをきいて整体みたいだな、といった。身体が整ったら頭でこれはだめ、とか考えて食べなくてもいい。

必要なものを身体は欲する。

私も保育の現場みたいだな、と思った。

こどもたちがスムーズに遊べる環境。

 

要石という言葉があるそうだ。

数日後たまたまみた洋画にもkeystoneという言葉がでてきて、あ、と思った。要石だ。

 

すこし整えること、要石が少しずれることで、自然環境も、身体も、人間関係も循環していく、のだろう。

 

それが要だよ、と見きわめる目も必要だけれど。