かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

踊ル暦 穀雨 4/29

 

雨が花をつれてくる

そういったのは誰だったか

 

 

ふってはやみ、ふってはやみ

雨の、ふりつづける水分を

土の熱が蒸気へと

 

したからうえへいこうとする

動き

 

そしてうえからしたへおちていく

動き

 

田んぼのかこいと、湖に続く境界が、もやとして

 

ぼんやりと淡くなっていく

 

 

水のはった田にうつる月

鏡面

 

そしてまた雨

みえる/みえなくなる

 

そのあわい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紙の本がすき

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どんなに遅読で幅ひろい知識がなくても、こうしてデジタルツールを使って書いたり読んだりしていてもやっぱり紙の本が好き

 

今号の暮らしの手帖で佐藤雅彦さんが

選択できる蕎麦屋がある至福について書いてるが、同じようにその背表紙のタイトルの並びを見ているだけで中身を読む以前に幸福感を感じます。

 

好みの蕎麦屋の選択のように、それはなんでもいいわけじゃなくて、心が喜ぶ本が数冊あればいいし、あれも開いてみたいこれも、、となるけれどいま読めるのは限られた数行、多くても一冊。そしてそれは紙であることが結構、というどころか最重要なのです。

 

コンピューターが発達して、本もデジタルで買える時代。自身も本を出す石川直樹さんは、荷物が限られる長期の極地での滞在でとうとう取り入れたデジタルブックは相当に便利だったと書いてあったけれど、それでも装丁や字体も含めて紙の本がいいに決まってる。

(断言)

 

 

 

春休みもあって、出先で度々、小さくも豊かな本棚の並びに幸福を得た数日。

 

ほかのレジャーもすきだけれど琴線触れる本棚は私にとってことのほかレジャーの上位にあるのだと再認識しました。

 

 

一番手は満月マルシェ+bookfullmoonに出店されていた半月舎さん

若いのにおちついた雰囲気と、交わす会話が楽しく置いてある本をネタに色々話す。赤瀬川原平さんのトマソンの話(ミシマ社の本に、彼女が寄稿してます)や石牟礼道子さんのこと。私は本のタイトルに惹かれて手にとった初武田泰淳。夫人の武田百合子富士日記は読んだことあったと思うけれど。春休みに読めるかな。(読めなかった。)

 

http://hangetsusha.ready.jp/

半月舎さん

 

 

 

そしてその数日後、家族で行ってみたかったとある古書店へ(すきすぎて、とある古書店にしておきます。)

 

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ご夫婦が自宅の一部を解放してた、家にしては沢山でしょうけれどちいさな古書店。レコードもあります。娘が、私も娘も大好きなるきさん高野文子の比較的新しい本をみつけました。

 

http://dormitory-tomokins.tumblr.com/

 

これまたきゅんとするくらい好きな内容

 

私も月の本を買ったのですが

 

その本について調べていてうっかりamazonの古書の値段を見てしまいました。

けれどなぜか私が手に入れたのより安価であっても全く悔しいとかという気持ちなりませんでした。

チェーン店の古書店で買ったのであればそう思うのかもしれませんが、何というか、ここの本屋で吟味して手に入れて帰る。それ込みの値段というか。

この感覚は悪くありません。

 

 

 

そして退職記念の旅行に母と城崎に足をのばしたときのこと。

 

母が友人のつてで予約したらそこはどうも志賀直哉ゆかりの宿。

それもあるのか、ロビーには

セレクトされた本棚があります。

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食事よりもしつらえよりもその本棚を横に温泉のあと居られる幸せ。

前述の、選ぶ幸せ。

背表紙を眺める幸せ

この方のセレクトはすきだと思いました。

城崎文学館のディレクションもされた幅さんがどうもセレクトされたのではないか、東京のとある本屋のような並びでした。

 

http://www.bach-inc.com/

 

 

娘は豆本となった手塚治虫全集にご満悦。虫眼鏡片手に、粋なことを考えた人もいたもんだ、と微笑ましくくつろいでいたのでした。

 

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最後に最近10年ぶりに訪れたソーイングテーブル

http://tamazkue.sakura.ne.jp/pg1.html

 

大阪の街中で、ここは南の島なのか

オープンエアにざっくり置かれてる、

私にとっては宝物にも思える、星野道夫さんの数々の書の棚

 

用事で行ったけれどここはずっといたい場所でした

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ここにもその日、そういえば虫眼鏡が。

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踊ル暦 清明4/10

 

 

 

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しんとしたところから

薄くも、味わい深い芽たちが

あらわる

 

淡い桃の色

淡い緑色

色はあるのか

と思うほどの微か

 

近くではわからない

一、一、の存在が

個々に

ひとつの木から顕れる

 

近くでわからないものは

 

とてつもなく遠くへ

みえないほど遠くへ

 

日々の生活でみえてなかったものが

旅先で気づくように

 

淡さの中で

透き通る水のような

 

 

 

 

1で動く

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写真はエンソウというカフェにて

禅の書だと思われます。

 

 

今日は

わいわいと話す中で

すっと一人ででも動く人の活動に

共鳴して人は集まったり、けれど一人でもいいと思えるからこそその活動が続くのだなと思う瞬間がありました。

 

もちろん誰かと集いたい気持ちもあるけれど

 

一人ででもやるという感覚は

さみしさが募るようでさみしさよりもすっと芯の通ったすがすがしさがあるやうに思いました

 

何年か通うお茶の手習いでも人を気にしないときお茶と向き合う気持ちが集中しました

 

緊張よりもすっとリラックスして自分と対話する感覚

 

ある人は

誰がくるかわからないけれど一人でもやるときめた、活動する地域のガーデニング

 

誰でも来てもいいとオープンにしているドアの向こうにたとえ来る人が来ても来なくても続ける平和のミーティング

 

こどもたちがつどうための居場所 、たとえそれが自分のこどもだけだとしても定期的にそういう時間をもつ「自主保育

 

それが一人のときも、だれか賛同してつどうときも気にせずに一人でもいい、とすっと気持ちに清々しさをおぼえるとき

その、それぞれの一が馴れ合いのつながりではなくそれぞれが自立したつながりをおぼえていくのではないかと

 

 

その話をしていたところで不思議な体験をされたGOMAというアーチストの絵をみせてもらってさらに確信したのでした。

 

点描画のようなひとつひとつ点がうたれてる絵の集合にグラデーションのような、

遠くからみたらひとつのなにかカタチ、絵になっているのですが

 

やっぱり点はそれぞれ一つ一つ独立/孤立していて

(個立といういいかたが近いかも)

でもだからこそ

その孤立の拡散と収縮に共感する人がいたりする

けれどやっぱりその描いてる人の作業は孤独(この孤独にさみしさの感情はあまりないのかもしれません)で、

孤独じゃないと描けないし、描くことの治癒的感覚がみる人にも伝わるからこそ共感を覚えるのかも。。

 

 

次元は違うけれどトイレに一緒にいく人がいないとつらいような教室での集団感覚より

教室はないけれど自分の興味で組み立てられた大学の、ひとりひとりの在り方の方が孤独を感じずにすみました。

 

一人が孤独なのではなく

集団の中にいても一人でいても

 

私はここ

私はこれをする

 

感覚がセンターにあるとき

特に私なんか感じやすいさみしさが

清々しさに変わるなと感じます。

 

集団の中の孤独にきつさを覚えた学校生活の記憶がたまに顔を出すとき

自分のパーソナルスペースをいまは保つことはできるんだといいきかせると共に、私は何でいまここにいるのか

なにをしてるのか。

どこをむいているのか

と自問するとき

さみしさのベクトルがすっと自分の記憶からの妄想より

過去から連綿と続く常に新しく変わっていく、けれど変わらない何かに移るとき

集団の中でも一人でもいいと思う

 

不思議だけれどそうすると

かえって人と対話できる自分がいたりします。

 

よくよく自分のことを思うと一人行動、一匹狼的な匂いのする人としかつきあえないし、さらによくよく考えてみたら

人間の所属願望が本質的にあるのだとすれば

所属している、所属しているかのようにみえるなにかがあったとしても

いい意味でひとはそれぞれ孤独で、そこをこじらせないで感じられる人に私は清々しさと共感をおぼえていたように思います。

 

この文をかくことも一人の作業

 

これをしていることで一定のさみしささえも愛おしく

一人作業が

誰かの一人作業と共感する喜びも感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

踊ル暦 3/20春分

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はじまりのゼロ

 

(ゼロは1ではない)

無は有るということへの期待
もしくは内包

おわりがまたはじまる

眠っていたものがおきだす

土の中

死に向かっているのか
生にむかっているのか
有にむかっているのか
無にむかっているのか

拡散と収縮の環


芽吹く木々をみると
私の中のねむっていたものも
また、むく とする

たちあがる感情がまた
花を咲かせる

私もひらく
木もひらく
大地もひらく

空でさえ天にむかって
ひらいていく

 

 

そんな春を分けると書く日

 

#踊ル暦#地球暦の春分は0度

 

紅茶の時間

 

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写真はあかね軒さんの桜餅、菜の花

 

 

鶯が初鳴きするのをきいた朝

 

唖者は

唖者の言葉をきく耳を周囲の人が待ってるとき

唖者は

唖者ではない

真木悠介、気流の鳴る音、より

 

聴く耳を持つものがそこにいる

唖者という言葉はあまりよくないかもしれないが、少なくとも話がうまくできないというコンプレックスをお持ちの方は私もふくめて少なからずおられるだろう。

 

私は、一緒にいてなにか話さなくていいという友が20歳前にできて無口だったのが不思議とようやく話せるようになった。

 

多分波長があうというか、話すこと以外でなんとなく居ごこちがよいと、不思議と言葉もでてきたのかもしれない。

 

 

•ただ話をきく

•ただお茶をだして

•その人のすてきなところをみつけたらつたえる

 

 

紅茶の時間を主宰する

水野スウさんはその3つが私のしてること、とおっしゃった

 

 

誰が来てもいい無料の場所

子育て仲間がほしくてはじめていまは流行らないけれど。といいながら

流行らないからこそ少人数でポツポツと

毎週家を開けているらしい。

 

 

わたしには同じようにできないけれど

as it is

あるがままで

何気ない日々の中でめざすところは

そのような光のようなところ。

とめどなく励まされた。

 

 

子どもの頃、

銀座月光荘がスウさんにとってのその場所

自分のあるがままで素敵だよ、と言われたその感覚を手に場所を変えて

次は自分がそれを伝える立場になる

 

場を作っていくこと、お茶を淹れること、すばらしさを伝えていくこと、

 

 

 

 

スウさんの話は憲法へと続く。

その話はまたあとで