かやつり草

日々の、おもいたつこと

管 空洞 蜘蛛の糸 蚕

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絵を見て言葉をイメージするという習作を最近つづけている。

 

蓋をあけてみると

全く知らない人のイメージがしっかりと絵とつながったり、季節とつながったりする

 

五感を超えた六感みたいなところで

言葉をおろすものだから

考えてしまったり自我がでるとたちまち言葉が出なくなる

 

ある絵をみてその人を天からの糸が支えているイメージ

その人は自由に動いているようにみえて動かされている。

方向性。

自由に動いているけれどある度をこえるともしかしたら糸は切れてしまうのかもしれない。

でも海をわたるほどの蜘蛛の糸、と思えば。

 

芥川龍之介の蜘蛛の糸のように、、いや蜘蛛、ではないな。

ふとかいこからでる絹糸なのでは、とおもった。

かいこ、と文字を打つとそれは天の虫とでる。

「蚕」

天からの虫。

 

蚕をじっくり観察したことはないけれど、繭をつくって、成虫するとそこを破っていく。

(破ける前に茹でてしまうことの方が多いそうだがタッサーシルクというのは成虫が繭を破ったものを使う)

そこにあるのは空っぽの抜け殻

 

抜け殻を大切に、管であることを大切にする、絹の世界

 

身の詰まった生き物「成虫」ではなく、空洞となった空っぽが重要。

そして糸、、、

 

そんなことを思い巡らせていたら

友人とのやりとりでここ数日の暦は

桑の葉を摘むころ、なのだそう。

 

桑の葉はかいこが食べる草  

 

面白いことにそうやって目の前にある事柄は繋がっていく

 

空っぽであること

なにもないこと

 

「ある」

 

ことがとても重要と一見思ってしまうけれど空であること

がいかに重要か

「私」が詰まっていると天の糸は重みで軽やかさを失う。

 

天にまかせると

思ったとたん

ものごとが動いていくのを感じる

 

心配はなんの得にもならない

いのるようなきもちというのは

その人のことを思うけれど

空っぽの心のままに

私が!という心を棚にあげて

お願いします、ということ。

 

行動しているし人のために動いているけれどみていて楽に感じる人と、感じない人はその空洞の軽やかさの違いか

 

纏っているものは美しいけれど中身はないというのはもうこうなると褒め言葉だ。

 

人にできるのは蚕のために葉をそだてつみ、用意する。

 

教育もそうだというが環境を整えることそれだけでこどもはそだっていく。

いかに私がそだてた感を棄て天にまかせつつもほったらかしでないこと。

そのバランス