聖書の創世記に「夕があり、朝がある。」というくだりが世界をかたちづくるときの最初の7日の毎日の出来事の最初にある。
1日の初めは朝なんだしと、どうして夕があり、朝があった、なんだろうと読みながら思ってたときがあった。
朝、一日のはじまりに起きて、おやすみなさいで終わる。のはず。
けれどやはり夕があり、朝があった、なのだ。
一度終わりにするから次のはじまりがある。
終わりにしないと次がはじまらない。
一日の終わり。日が暮れてやすんでいるときは決して「停止」しているときじゃない。めにみえて動きがあるときだけが「活動」じゃないんだ。
夕暮れがあって静まりがある、闇の中で力がたくわえられて
そして朝。
終末論だったり、世も末、、という言い方があるけれどそれももしかしたらはじまりなのかもしれないと希望的観測の考えが横切る。
でも土から芽をだす春を夢みてすごす冬はいいものだ、と春先の花を植えたりする。じっとしんだように静まっている土の中で。
「草の根」の運動。
絶望しかないようにみえるところにこそ希望を見出して信じて待つ。
祈る。
夕があり、そして朝がくる
と信じる。