忌々しい坂だ
60年代の青春漫画、坂道のアポロンで通学路の坂道の前で主人公のかおるが呟く
駆け上ったり、降ったり。
いまいましさは
ときにそれ自体がよろこびになったり、降りだからといってほっとするものではない
のぼりの坂は体力的にはあれだけど私は嫌いじゃない。
普段の生活は辛いとのぼることは辛くもなるけれど、なにかがまってる坂道は喜びの汗。
のぼりがすぐまっている谷底は多少うんざりのちいさな恐怖。
坂道のアポロンででてくるジャズナンバー
モーニンという曲は朝morningじゃなくて嘆きmourninだった。
でもそんなタイトルの曲にわくわくしてしまうこともある。
メロディになにかが反応して
嘆きすら、毎日のキツイ坂道ですらよろこびにかわる瞬間
、、、、、、、
先日オープニングで演奏させてもらった、こまっちゃクレズマーのライブ。
ロシアや東欧の薫りのする音楽。酸いもも甘いも知ってるような熟練された人たち。とても楽しくて心地よい。
でもなぜか谷底感を感じる。
それが悪くない
ただたのしいのは私はもう要らないのだ。上手なだけの演奏も。自己表現の演奏も浮かれたような音楽もいいけれどちゃんと谷底感のある演奏。笑っちゃえるけど、泣けてくるような。
谷底を知っているひとたちのあえての浮かれた風な音楽。
まだまだの私はたのしげ、ならたのしげ。哀しげなら、哀しげになってしまうけれど、どうも世の中成熟した人たちは違うようだと気がつく。
かなしみを根底にかかえながらもそこはあえてかなしみといわない、
忌々しさという言葉も一蹴して喜びに変える。
かえていかないとやっていけない不条理の中で笑いというジャンルもあるのかもしれない。
かなしみを笑いに変えるのはかなしみという感情を自分が無視するんじゃなくて、そこを浮上させての、笑い。
(夜間走行で自転車旅行中の息子が眠すぎてねむったまま20キロ降っていた、、という話を、びっくりしながらも笑いながらきいた。)
だからなんだ、って話なのだけれど
だからなんだって内容の奥底にある何かを感じている
谷底について安心することもあるし、峠だから良いとも限らない。