萩乃というのは
父親が
私につけようとした名前だ
画数を調べてつけるなんてことはなく
多分雰囲気がいいと思ったんだろうけど
母方の祖母が反対して却下
(多分、は◯、とかいわれる、とかそんな理由)
しかし
物心ついた頃には
祖母の俳句の名前は
萩乃で、
俳句仲間からは萩乃さん
と呼ばれていた
きっと内心気に入っていたか、もしくは
うしろめたさもあったのかもしれない。
父親の文章というものを読んだことはないけれどそういうセンスというものはある人だったのでは?と推測する。
父親も随分前に死んでしまった。
祖母が早くに亡くなって
同じ句会に母は入会していた
こともあったけれど
その名前は継がなかったし
俳名というものを母は持たなかった。
母たち姉妹が祖母の遺句集を作ったタイトルは
かやつりぐさで、
なんとなくブログを作るときに
その祖母を辿るような気がして
同じタイトルにした。
かやつりぐさは
細々とやっているバンドの名前
キペルスパピルス と符号もして。
なにかを記す紙、
それよりも本質的な原始的なところに立ってる気がする。
なにかにしようとも、なにかになろうともしない媒介。
それでも積み重なりはありがたく
私自身のささえになるものが
うみだしたものからというものに
感謝しかないけれど、
やっぱり
名前、というのは何かあるのかもしれないな、と感じている。
父親からも祖母からもまもられているようなそんな香りがする。
最近は随分といろんなものが濾されたり、昇華されたりしてる。
濃厚になったのか、シンプルになったのか。