こないだの秋、ソーヤ海くんという人と話したとき、サテイシュクマールさんの話になった。
サテイシュクマール氏については私は詳しくないのだけれど、ソーヤ海くんがサテイシュさんからきいた、アンスクーリングという言葉がずっと響いている。
サティシュさん曰く、既存の、いわゆる学校というところには行く時代は終わったと。
ソーヤくん自身、アメリカの大学に入ったときちょうど911後の戦争一色のアメリカの社会で、異を唱えた学生たちで自分たちの学校を企画運営していたそう。(そのとき呼んだ講師の1人がサテイシュクマール氏)
その学校の様子を想像するに本当わくわくする。
生活共同体のようなオルタナティブな学校。元の大学の教室は空っぽ。
学生時代少しお世話になった鶴見俊輔先生(ちょうどこの間おなくなりになった、戦争法案が可決されるかいなかのころ)
鶴見先生が出会った言葉にもアンラーンという言葉がある。
まなぶことから離れる、学校から離れる
鶴見先生の話。
本当にどうしようもない不良少年、どうしたって教室の椅子に座っていられない少年が、親にアメリカにやらされて急に知に目覚めて信じられない量の書物を読みだすくだりは何度思い出しても愉快だ。
当時の日本で、15そこそこの少年が留学するということ自体、普通の環境ではまずないのだけれど、鶴見先生曰く親や社会の圧力は並々ならぬものだったと察する。
うちにも15の、一筋縄ではいかない息子がいる。
私は高校がたのしかったといえば微妙なのだけれど、辞めるという選択与えられなく、辞める勇気もない高校生だった。
辞めるイコール世間から全否定される感覚だった。
ところが蓋をあけてみれば高校を途中でやめたあと孤独な期間はあれど成功している人たちがいる。
やめたことでそこがその人のschoolになり、社会になるのだ。
もちろんそんな甘いものじゃないよ!という声もあるけれど、教育ってなんだろうと考えた時本当にカタチが大切なんだろうか、とかんがえる。
そう信じられないようにさせられているからひきこもりの人が多い世の中になっているんだと思う。