音楽仲間が最近たくさん曲を作っていて仲間の2人とも歌詞をつくるとき曲が2番3番となったとき、一番の歌詞に伴って韻をふんでいく。
その感覚は日本語だけじゃなくて英語なんかでもそうで多分万国共通の感覚なのかもしれない。
私はそういう作業は得意じゃなくて韻を踏める友人にとても感心していたのだけれど、、、。
こないだこどもが学校で百人一首をやって楽しかった、とはなしてくれた。
百人一首でも上の句と下の句でも言葉の韻をふんだりするよなあ。。
韻をふむ、というルールにすると逆に歌詞をおもいつくよ、と友人が話していたような記憶もあり、おじさまの得意なオヤジギャグ的なこともやればやるほど冴えてくることとか、、そんなことを考えたりしていた。
つながりようがないことを何か1つのルールによってつなげると大きな喜びや創造が産まれるのかな。。
言葉を介して、目の前にある点と点がつながっていく作業を意識してしていく。
それが自分の作品でなくてもそこに自分へのメッセージを発見していく。
つくった本人にとっては意識して作ったものであってもそれよりもはるかに超えた偶然の一致が時空を超えて個々の心に響いてく。
偶然の一致だと思っていたものも必然なのかも。
意識すればするほどそういった一致を言葉だけじゃなくてメッセージとしてうけとることも多いかも。
そんなことを考えながらフィンランドの教育事情の動画をみてた。
数学の教師が、こどもたちが勉強するのは将来しあわせに生きるためです。
と断言。国語も数学もこういった発見がふだんの生活のなかにあればわくわくしたものになるんだろう
自分の中にある言葉にならないものが言葉になったときの喜び、繋がらないだろうと思っていた言葉と言葉がつながったときの喜び。