大したことじゃないけれど、あることで、お誘いが私には来ない、ということがありました。
そこにはどういう理由があるのかは、その本人にきかないとわからないけれど、
何人かには誘われてて、私には来ないということってまあたまにあります
そこでわたしは、わたしには誘われるにふさわしい能力?がないからだ、とか
自虐というか、その罠に陥らないようにしようとはするもののいい気持ちはしていなかった矢先、
ところがたまたま誘われた人の方は、誘われた方で、私が誘われなかった理由として、そんな誘いにはのらない芯があるような、
逆に誘われた方はふわふわとそれにのってくれるようにみえると思ったんじゃないか??
とその人はその人で自虐的になってる
だから誘ってみた本人にしてみればもしかしたら直感だけだったり、たまたまだったりするんだけど、
そこに結構、自分のなにかを結びつけようとしてしまうことってあるんです。
抽象的な事例ではあるけれど、
なるほど、人には根っこにそれぞれの信じている、信じてしまっているものがあるのだ、と気がつきました
その流れで話していて、
よく憲章だとか、policyだとかってあるよね、
と話していて、そういうの1人1人作るといいよね。と話してた。
じぶんの無意識の信条があまりに自分をたいせつにできてないと、そこに流される。
だから意識上にじぶんのpolicyをかがける
よく教会の前にいくと聖書の言葉が掲げてある。
お寺の掲示板でも
こないだ草津ファーマーズマーケットに行ってもpolicyがかいてあったっけ。
何年も何年も人がその信条をかかげて信じようとするのには、
行動や無意識に自動的にネガティブシンキングにフォーカスしてしまうからかも、、(私の場合)もしくは、あらぬ方向に流されてしまうから。
逆にそこの自分軸がしっかりとたいせつにされていると、多分そこに立ち帰れる。
憲法を改正する、しないでも論争になるけれど、やはりその言葉のひとつひとつに
実際の生活や社会が出来ていくと思うと自分ごとにしていかないと、と思う。
やっぱり日本にすんでいる限り憲法も勉強したいし、改めて自分の「憲章」を洗い出したり、曖昧になっている部分を言語化してみるのもありなのかも。。