かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

水俣、記憶 、花の億土へ

60年をすぎてもなお、惹きつけられるその理由は何故なのか。「歯止めとしての記憶」水俣病講演会に縁あって足を運んだ。

 


石牟礼道子著「苦海浄土」を読むと水俣病という「わたし」から遠い、過去にしてしまいそうな事柄にも関わらず、そこに起こっていることが他人事ではなく自分ごとのように重なる。

 


登壇者の森達也氏によると元来、種として人は弱い存在ゆえ、群を成し続けるために文字、言葉を発生させる。敵の前で集団として行動し続けるために指示としての言葉を求める。この10年の不安定な社会の中で指示を望み指示がなくても予想して行動する忖度という言葉が浮上してきた。

水俣(闘争)はまし」という言葉が立岩真也氏の登壇の中でも何度か登場したが、ひとつには曖昧な、何が問題か分からないほどの社会不安に「集団」は何かしらの導いてくれる言葉を得ようとしているように思える。

けれども水俣を通じて集う人に共通するのはそれぞれが与えられたものではない言葉を個として自ら思考しようとしている。それは一見群れのようにみえるが前述した群れとは違う。

当事者である水俣病患者の緒方さんは加害者への憎しみの末「チッソはわたしだった」といった。そこ迄に至るかなしみの過程と立場を変えれば自分自身も悪になりうると。そして言葉にならない呻きを言葉に紡ぎあげ、これは詩であるといった石牟礼氏。そしてそれに触れる機会を得た「わたし」の人生において

そこにいるあなたはわたしであると。

水俣でおこったことは

普遍的に今自分自身が身を置いているどの場所でもおこりうることであり、水俣病という共通点があれどその表にある強烈な悲しみの奥に自分を見出すことなのだと。

 


水俣は豊かで美しいところときく

汚されてもなお、むしろかなしみゆえにさらに美しいところになったのではないか。最後に当事者としての小笹恵さんの生の声が聴けたのは何よりの「言葉」であった。

 


“――美とは悲しみです。悲しみがないと美はうまれないと思う 「花の億土へ」より 石牟礼道子著“

 

 

2023.5.

よつばつうしんさんへ寄稿