いろんなことをごまかさずに隠さずに表す時代だ、行動する時代だという人がいて
そうはいっても、、、と
習慣としてどうしても霧に隠してしまう。
自分でもなにが私の意図なのかわからないときがある。
でも意図していく、表していくと本当に実現していくようだ。一部では実感している。
でも実現してほしいと思いつつ、怖い。
意図すれば叶う、なんていう
その魔法みたいなものは
自分の譲れない気持ちや本能の正体のエネルギーを
ごまかしながらも平和を保っているように
どこかでフラストレーションを感じながら
なんとかたまに叶う小さな実現で満足しようとしている。
この前ドワ、とでた怒りの感情は私の願いや大切にしていることへのサイレンだった。
(なかなか家族の前でしか出せないけれど。。)
たまたまというか、娘の小学校生活が昨日唐突に終わり、先生の最後の学級通信を読んだ。
この一年、先生は一度もこどもたちの前で叱ることがなかったのだそうだ。
また多分オリジナルの道徳の授業のプリントに
むかっと感じるとき、、、と空欄に
娘は、「自分の良いと思っていることを侮辱されたとき」と記入している。
そして
怒りを感じたら7秒数えよう、みたいなことが書いてあった。
余談だけれど
娘のクラスでは毎日のようにみんなが輪になって話す。
一度だけ参観でみせてもらったことがあるけれど、今日はこんな嫌なことがあった、いいことがあった、こんなことしてくれてありがとう。
(誕生日おめでとうのコーナーもある)とトーキングスティックみたいなぬいぐるみを持った人がはなす。その中で気持ちの共有や解決のアイデアがうまれていく。
なにか問題があったとき、表面的な感情に名前をつけて、でもほんとうはどういうことなのか、と言葉の意味を先生が教えてくれるねん。とその先生の言葉に耳を傾けているのか、いつもメモを持ってるときがあった。
いつのまにか嫌だな、っていうてたことも気持ちをスルーするチカラができたり。それは自分の感情を無視するということではないんだとおもう。
いちいち、毎日のように
その大切な部分をチェックするような時間をクラスでもっていたから「満たされない」ものからの
怒りのような感情がうまれなかったのかもしれない。
うまれたとしてもその感情と奥底の正体との親和性。
非暴力コミュニケーション。
その人の本来必要なニーズがわかるだけで
満たされることもあるような気がする。
なるほど、
怒りが出るのは、自分の価値観や大切なものが侵されるときで、
そこに気づくと怒りが無駄で終わらない。
怒るという行為は本能的だし、周りも本人も
あまり気持ちの良いものではないけれど
それ自体は尊くて大切なものだと
感情の奥の私がみえたら
多分本能的な怒りのエネルギーも
ちゃんと包み込める、御していける力がわたしにもあるのだろう。
そこを信じるためにもいま蠢いている土の中の虫みたいにもぞもぞとしている小さな意図を
たぐいよせるにはいまいいときなのかもしれない。
そして糸はそのようにもわもわしているものから紡ぐものなのだ。