かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

山籠り かがみ

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こないだハワイの方とお話ししたと書きました。

ハワイといえば、ホオポノポノだなぁ、とぼんやり考えていました

 

 

この世の中では感情を揺るがす事象が近くでも遠くでもおこる

同じ現象であっても揺るがされることと揺るがされないことがある

 

それはいいことも悪いこともなく、です。

一見いいことにだけ感謝したり

悪いことにだけ謝ったりする、それは当たり前のようなのだけど、

はたしてそうなんだろうか。ということをオポノポノのことを知ったとき思いました。

 

わたしという物体を通して言葉を通す。

言葉の気流みたいなものが

おこった出来事に対して発する言葉でそこに感情があるなしになにかが変化していく

 

断食中は大事件などおこらず一見平和に

友や停泊してる人との交流のだけのはずなのに

あのハワイときにおしよせてきたような感情がおとずれてきて、しかもそれは相手が悪いわけでももちろんわたしが悪いわけでもなく

瞬間瞬間で落ちたりまた感謝がわきおこったり

 

ほっておくとどんどんだめなほうにいってしまうのだけれど、わたしの目の前におこってる(と感じてること)はわたしの今をあらわしている、と

少し俯瞰してみると、、美しさは感謝だし、美しくないと思ったものも、「私は美しさを選択する」というアファメーションにかわる。

 

噂話の誘惑は、

よいこともわるいことも、私不在。

 

 

居ない人の話をすること、、、

いい話ならいいように思うけど、そこに

対話してる私とあなたは居ないので

たまにわたしは寂しくなる

 

でもそれですら、

話をしてる相手や、またそれを感じとるヒントとして私という存在が

次へもっていく装置になるのかも。

 

うまく言葉にできないけど

どうも微小のその感覚はアンテナであって

自己否定の材料にはならない、ということにはたと気がついたのです。

 

こないだあったハワイの方が人にはそれぞれうたがあるといっていた意味もなんとなくさらに腑に落ちて、ちいさな詩も書きました。

 

、、、、、、、

 

 

かがみ

 


みるものすべてはかみさまからの

しるし

いまわたしなにをかんじてる

いまわたしなにをみてる

理由がわからない

かなしみもさみしさも

理由のわかる

くるしみも

ひとのよろこびも

そらのかがやきも

すべてすべて

わたしをあらわす

わたしをみちびく

かがみであるなら

ちゃんとそれを

うつしだそう

絵を描くことができなくても

心を映すカメラはなくても

はっきりと言葉にできなくても

ちゃんと心の鏡はうつしだしてくれてる

 


とどまる景色はなにひとつなく

風は雲を悠々と時に激しく流していく

そこにわたしは居るだけ

流される時もあれば、

木のように大地にしっかりねざしてる時も

流れていく感情や、

時には大雨が降る時もある

それはやがてかわくほどに陽はのぼり

また鎮静の時を迎える。

くりかえしくりかえしのリズム

1日

季節

の中にも

決して同じ日はない

流れていく感情も

流れていく空の様子も

かがみ

わたしをあらわしている

 


出会うひととの交流も

感情もわたしへのメッセージ

 


でもあまりにその「天候」がめまぐるしいと

幕屋にはいってしまうこともある

それもわたし

 


嵐を待つ

心の嵐を思う存分静けさの中で味わうのも悪くない

 


ただおこる事象はすべてかがみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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