同じ干支の、年齢は一回り違う友に誘われたときこれは行かないといけない。というインスピレーションが来ました。いわゆる直感というやつです。
そしてその場所は奇しくも友と同じ干支である寅がまつられている山。
そこはラグジュアリーなファスティングセンターみたいなところではなく昔きっと流行った道場のようなところで、多分1人だったらいけなかったんじゃないだろうか?というところでした。
断食はしたことはあります。
だからそのハードさと爽快感は記憶ありながらも
長い期間はしたことないし、はてどうしようかと思いましたが、友もいることだしと行ってきました。
いわゆる普通の旅行前のうきうきはありません。どきどき。場所も未知だし、
本当の意味で旅なような日々でした。
周りはちょっとした観光地なので誘惑は多少あります。が何か食べたいという欲は断食中はありません。
しかし
いろんな感情が湧いてきます。
びっくりするほど自分の至らなさと未熟さ。
それを否定するおこがましさ。
自己憐憫のかたまり。
でもなにかに逃避したり
自暴自棄にならない環境がここにはある。
ネットも使おうと思えば使えたけど山の不便な環境のままにしておいた。
よく考えすぎといわれます。
押し寄せてくる波をどう対処すればいいのか
わからなくなる。
食べないと苦しいのかといわれると、実は苦しくない。
苦しいのは食べるのを再開する時です。
実は腸と脳はとても繋がりがあると、ききました。なるほど、空腹であることにあきらめた脳は感情の苦しみを書くことで転化できると促してくれました。
この2ヶ月くらいどうしたらいいのか本当にわからなくて、いや、どうもしなくてもいいのに、目の前の日々に流されて日記すら書いてなかった。
書くことはわたしにとって生命線なのに。
それに気づかせてくれただけでもきてよかった。
家族にすすめられるままに、
一年読めなかった本たちもなんだったのだ、というほどするすると空腹と暇に任せて読める。
その中にパウロコデイロの、アルケミストという本がありました。
、、、
アルケミストの中で、主人公である少年に
人生のすすむべき前兆はいたるところにある、
そして宇宙の言葉(原語の方がもしかするとしっくりするかもしれない、普遍的な言葉と訳された方がいいのかも)
は幸福と、偶然の一致にある、とある人が
言うのが心に残ります。
、、、
断食は黙行ではないのでなんとなく静かにすごしながらも涼しくなると友と夕方涼みにでたり、流星群みたりしながら語り合いました。
普通の旅行では考えられないような濃密な時間の中で、
彼女と語る言葉の節々に、本から出てくることと一致があったり、何気ない散歩の中でであう言葉に何か自分のいままでの何かとリンクしたとき、わくわくするような一致を感じる。
幸福とはわくわくなのではないか。
偶然の一致とわくわくが重なるところにこそ
重要な、すすむべに道を示唆する言葉、があるのではなかろうか。
寅年の人たちが寅にまつわるところにいくように。
その2につづく