ゴミとかかいて
塵
塵芥
チリアクタ
くたくたにつかれて
自尊心もたいがいつかれて
塵のようになるときがある
私はそんなとき
いまなら随分と図太くなって
布団にとけてしまえば
元気になってしまうけれど
どうしようもなく
集団の中にいて
溶け込みすぎて
自分がたいしたことない
それこそ
つぎの日いなくなっても
わからないような
存在に感じてしまうこと
一度人とくらべだしたりする濃さが強いとあっという間にチューニングのようなものが狂う。
ありのままで、なにも変わらない存在が
見方や感じ方で随分と捉え方も変わるものだ。
星野源がエッセイの中で
おれなんか消えてしまえばいいのさ
と、めんどくさいタイプ、いわゆる「気にしい」な時に、落語家、桂枝雀が、こんな風に言っていたとひどく納得したとか。
ーーー「気が寄る」というか。自分のことを思いすぎるんですね。でも実は自分を思うことが自分を滅ぼすことなんですな。
人を思うことが本当は自分を思うことなんです。ーーーー
音楽や演劇をやる中で「自分がなくなること」のよろこびを星野源も語ってる。
評価やつぎのコードや歌詞セリフへの不安がライブの中でどうでもよくなる、ライブなんかでもりあがってくると、自分だとか他人だとかということがどうでもよくなる瞬間が本当に楽しい。
らしい(そういう境地になりたい)
自分探しなんてどうでもよくて、自分なくしをしていく作業。
これって本当に語弊も生じやすく自分でもまだ言葉にしにくいのだけれど
あなた、も、わたしもない
ごみみたいだな、と思う瞬間もそのダストはもしかしたら星のキラキラ光るダストなのかもしれなくて、ほんとうに
友達の子が、
私はごみみたいや、っていって落ち込んでいたあと、あ、でもごみはリサイクルできるんや!と立ち直ったらしいけれど、
私なんかほんまにごみみたいや、と本気で思ったりする。
自己憐憫も甚だしいような、それこそ、めんどくさいモードだけれど、そんなときこそなんというか
隣人を愛せよ
とか
あなたは高価で尊いという
聖書の言葉がうわっつらじゃなく
あれれ、と思う。
隣人を愛することは私を愛することで
どんなにごみみたいに思ってても事実はキラキラのスターダストだったりする。
たとえば私は美しい人が好きでほれぼれするような友人に囲まれてるときがある。私自身はイマイチだなぁ、、と思うとき私はいつもより面倒な方向にぐっと私を感じている。
前だと私より(当社比)秀でたと思う人をほめると自分がそうでないことを認めたことになるのでは?と思っていだけれどいまはなるだけほめたいと思う。
私のなりたい自分のデータがそこにあって、
私は、あなたで、あなたは私だから?
人をほめることは私もほめることになるかもと思うから。
自分のことをイマイチと思ってしまうときはくっと、視点をあげて高いところから私をみる。
それでも塵だよ、ゴミだよ、、私なんて。と思うとき、本来の塵の良さを私はまだ知らないのだ
多数のきらめき
点描のような響き
同じモノなのにどうしてこんなに視点で違うのか。
塵、塵と思い巡らせていると、
正倉院の宝物についての記述が目にとまる。
ーーー天保4年の目録によると、長持ちの中に「御衣類色々、古織物数多」や「御衣類、塵芥」などがあった。今でも塵芥のようになった古い布地はおびただしい数量であると言われる
(和辻哲郎、古寺巡礼より)
布を織ることの貴重さを考えるといまのような使い捨て時代の布とは重みはあまりに違うから、そもそもの塵芥の意味は雲泥の差なのかもしれないが
言葉の重みとごみみたいなものの実際と価値みたいなものを考える
スターダストのダスト、
それは屑なのだ
屑の概念をかえていこう