かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

1で動く

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写真はエンソウというカフェにて

禅の書だと思われます。

 

 

今日は

わいわいと話す中で

すっと一人ででも動く人の活動に

共鳴して人は集まったり、けれど一人でもいいと思えるからこそその活動が続くのだなと思う瞬間がありました。

 

もちろん誰かと集いたい気持ちもあるけれど

 

一人ででもやるという感覚は

さみしさが募るようでさみしさよりもすっと芯の通ったすがすがしさがあるやうに思いました

 

何年か通うお茶の手習いでも人を気にしないときお茶と向き合う気持ちが集中しました

 

緊張よりもすっとリラックスして自分と対話する感覚

 

ある人は

誰がくるかわからないけれど一人でもやるときめた、活動する地域のガーデニング

 

誰でも来てもいいとオープンにしているドアの向こうにたとえ来る人が来ても来なくても続ける平和のミーティング

 

こどもたちがつどうための居場所 、たとえそれが自分のこどもだけだとしても定期的にそういう時間をもつ「自主保育

 

それが一人のときも、だれか賛同してつどうときも気にせずに一人でもいい、とすっと気持ちに清々しさをおぼえるとき

その、それぞれの一が馴れ合いのつながりではなくそれぞれが自立したつながりをおぼえていくのではないかと

 

 

その話をしていたところで不思議な体験をされたGOMAというアーチストの絵をみせてもらってさらに確信したのでした。

 

点描画のようなひとつひとつ点がうたれてる絵の集合にグラデーションのような、

遠くからみたらひとつのなにかカタチ、絵になっているのですが

 

やっぱり点はそれぞれ一つ一つ独立/孤立していて

(個立といういいかたが近いかも)

でもだからこそ

その孤立の拡散と収縮に共感する人がいたりする

けれどやっぱりその描いてる人の作業は孤独(この孤独にさみしさの感情はあまりないのかもしれません)で、

孤独じゃないと描けないし、描くことの治癒的感覚がみる人にも伝わるからこそ共感を覚えるのかも。。

 

 

次元は違うけれどトイレに一緒にいく人がいないとつらいような教室での集団感覚より

教室はないけれど自分の興味で組み立てられた大学の、ひとりひとりの在り方の方が孤独を感じずにすみました。

 

一人が孤独なのではなく

集団の中にいても一人でいても

 

私はここ

私はこれをする

 

感覚がセンターにあるとき

特に私なんか感じやすいさみしさが

清々しさに変わるなと感じます。

 

集団の中の孤独にきつさを覚えた学校生活の記憶がたまに顔を出すとき

自分のパーソナルスペースをいまは保つことはできるんだといいきかせると共に、私は何でいまここにいるのか

なにをしてるのか。

どこをむいているのか

と自問するとき

さみしさのベクトルがすっと自分の記憶からの妄想より

過去から連綿と続く常に新しく変わっていく、けれど変わらない何かに移るとき

集団の中でも一人でもいいと思う

 

不思議だけれどそうすると

かえって人と対話できる自分がいたりします。

 

よくよく自分のことを思うと一人行動、一匹狼的な匂いのする人としかつきあえないし、さらによくよく考えてみたら

人間の所属願望が本質的にあるのだとすれば

所属している、所属しているかのようにみえるなにかがあったとしても

いい意味でひとはそれぞれ孤独で、そこをこじらせないで感じられる人に私は清々しさと共感をおぼえていたように思います。

 

この文をかくことも一人の作業

 

これをしていることで一定のさみしささえも愛おしく

一人作業が

誰かの一人作業と共感する喜びも感じています。