かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

灯すこと供えること

 

 

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10月1日

父親の命日だな、とはじめて意識しつつも7年たってもやはりそのまえはやたらと心身の調子が悪くて、今ようやくぬけているところ

あまり眠れず2時すぎにおきてはろうそくを灯す。秋は特にいただきものや、森や庭でなるものがあって

とっては飾ってみる。

命日がすぎて、気づくとろうそくを数日ともしていないことに気がついた。

 

これは「させられて」いたのだな。

させられていた期間をすぎてあらためてまた灯してみようかと思ってみる。うんしよう。

 

 

昨日は大切な友人夫婦の赤ちゃんをはじめて抱いた。

イネイト、という自然に、、という意味合いの自然治癒力を促す療法があって、その帰り赤ちゃんに出会ったのだけれど、その療法をうけているときと全く同じ身体感覚を受ける。

心も喜びでいっぱいになっていく。

そして祝いたい気持ちで溢れてくる。

何もできないただだかれるままにいる赤ちゃん。それだけで完全な状態。自分も誰もかれもが通ってきた状態。

懐かしさのような、喜びと心地よさを感じる。

 

 

ふと思ったのは誕生日を迎えて、ろうそくを灯すこと、またお祝いをする人に対してプレゼントをしたりすることと、また死んでしまった人に対してろうそくを灯すこと、お供えをすることは相反するようで人が生きる上で必要なことなのではと考えるようになった。

 

お祝いしたいきもち、偲びたいきもち

どちらにも灯をともしたい欲求となにか供えたい気持ちが生じる。

 

先日キペルスパピルスのライブで、友人の誕生日ということがわかって誕生日の歌を歌った。そのあとにルイアームストロングのwhat's wonderful worldという曲を訳した(アーサービーナード訳)すばらしいみんな、という曲を最後に歌った。

 

びっくりしたのだけれど歌いながら英語も日本語も歌詞が腑に落ちるようにしみこんでくる

1人の人を祝うことで、自分の中にある祝祭というか生きる喜びが湧いてくる。

 

中にはもう会えない人もいる。

生きている人たち、残された人たちの中にある偲ぶ心と、生きる喜びが綾のように折り重なっていくのが本当に本当にしみじみと感動したのだった。

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満月の雨とはうってかわった湖北どっぽ村の暮の扉にて

 

#キペルスパピルス#暮の扉#ルシエル#イネイト#木通