かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

八つの話.6

'人生の装備'

 

 

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石川直樹の本で装備、がタイトルに入る本がある。

 

また違うけれど昔読んだ池澤夏樹の本でもスティルライフというのがあった。

 

ミニマリストというのも流行っているらしい

 

最小限の、けれど生活できる範囲で自分らしさをつくりだすこと。

 

 

山行はたまにしか行かないから何が自分にとって必要か、なくてもいいけどあったらよかった、が感覚的にいつも忘れてしまって帰って来たら今回はメモをした。

 

変わっていく体力や嗜好も変化していく

不食をされている方の動画をみたとき、

その方は登山する時の食料の荷物の多さが嫌で山では極力食べない、から日常でもそうなっていったそうだ。

(その方の運動量と食事の量は比例していない。。)

私の荷物も、確かに行きと帰りでは重さがだいぶ違う。

 

 

 

山だからこそ簡便なものをあえてそこは普段通りに行こう、と考えたり、お茶もティーバッグでなくリーフでもっていったりと譲れないところは譲らずない。

 けれどかといって服は着替えない。身体もお湯であらえたらまだいい方で、下山するまで入らないことも覚悟。

 

昔から体力はなくて山行の終わりや合間がすきだ。

ではなぜ故いくの?となるとそこまでしないとある一定の空気やふるいにかけられない。

 

 

映画をみに映画館へいく

映画はいまや家で見ることもできるけれど電車に乗ってわざわざいく

 

音楽や絵画もそうだ。平面的なものをではなく三次元、四次元、Live、生きたものを味わいにいく。

とてもそれは贅沢なことだけれどそうしたくなるのはそこに自分が体験したいスイッチがオンになるかもしれないからだ。

 

 

今朝はひどい感情のままその感情を抱きしめてペンを片手にノートを開いた。

 

 

 

それがたとえば瞑想だったり走ることだったりするのかもしれないけれどなにかしら自分をよきものへ導く装置をつくりだすこと。

 

 

実は昨日映画をみたあと、このブログに似たようなことを書いていて今朝おきたら文章が消えていた。

ある意味ショックなのだけれど、

映画の追体験のようだと認識すると少し、どころかかえって喜びを感じた。

 

(映画、パターソン。ジムジャームッシュ監督。主人公が平凡な日常の中で綴っていた詩のノートを飼っていた犬にボロボロにされ見るも無残な状態になってしまう。

ショックで外出すると詩人と称する永瀬正敏が白紙のノートを最後に渡す、、、)

 

詩をかくことは自分にとって喜びであるし、あとあと自分でみること、もしくは他の人にみてもらうことの喜びもあるのかもしれないが、一番の目的は白紙のノートに

自分から発するものを記していくことでまさにその時生ずるなにかなのである。

 

ノートとペンそれも装置であり装備だ、と思う。