2017/9/8
満月マルシェのつくりかた出版記念パーティーにて
聖なる予言という20年以上前に流行った本を友人が読み返しているときいて私もまた読みたいなと思い出していたがその中でコインシデンス、偶然の一致という話があったと記憶している。
いろいろなことがすすんだりするときは点と点が繋がっていく。
その符号の一致をすすんでいくサインとして捉えたりする。
本を読んでいてもそういうことはある。本から本へ呼ばれるというか。
原作が映画になった
(虹という曲が主題歌で、私もたまに歌っている)
この方の世界観がすきでエッセイも数年ぶりに再読しようと思っていたら別の友人が同じ本を読んでいるという。
「渡りの足跡」という本の中で友人は北海道の旅の前にこれを読もうとしていた。
そうなんだ、と私も北海道の渡り鳥の印象が強いままなんとなく本を途中からあけた。
ところが北海道ではなくそのページは最近訪れた諏訪湖の話だった。
それもどちらかというと鳥ではなく、戦争時代の父親が体験した日系アメリカ人の収容所の話。
私は学生の頃マンザナールというヨセミテの日系アメリカ人収容所跡地に行っている。
想像力に多少欠けているので自分が経験している場所だと格段と入りこみ度が変わる。
いやこのタイミング、なにか意味があるのだろうかと勘ぐる。符号が二つならんで、さてそこから私はどう導かれていくのか、とか妄想半分考えてしまう。
でも転がるように目の前にあらわれるメッセージは好きだし従いたくなる。
逆に目に見えてとても大きな共通点があるはずなのにそういう符号の一致が感覚的に何ひとつない場合もある。
趣味も似てるのにな、って思うのだけれど、気があうあわないという言い方に変えれば納得するというか。
そもそも、かやつり草と、日記の名前をつけたのは祖母の本のタイトルを受け継いでだけれど、
日記はじめていない頃、
そんなことはつゆもしらない音楽仲間が提案したのはキペルスパピルス
カヤツリグサの学名である。
パピルス、エジプトの古代の紙でもあった。
キペルスパピルス、どうも外国っぽい名前は気恥ずかしく感じたけれどカヤツリグサの学名というのをきいてそこに巨大な符号を感じた。
そもそも音楽もたいせつにしているけれど音楽だけをやるバンドではない。
みんな本が好きで、本を紹介しつつ演奏することもある。
「かやつり草」も祖母の俳句集として本になっているのもなんだか偶然ではない。