かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

八つの話. 4

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'目を瞑る'

 

 

不思議とこちらから近づくと偶然が重なるというか、むこうから、そうだよ、いまはそのときなのかとおしえてくれることがある。

 

、、、、、、

 

 

ついこないだ目が本当にみえなくなってしまった。

 

それも瞑想の会に参加して翌日。

 

 

 

いまも文字をみないように文章を書いている。

みえなくなったときはパニックになったし、炎症がおきていたときは死ぬほど痛かったけれど落ち着いて痛みもなくなったとき不思議とこのままでもなにか不自由はあるだろうかと、思った。

 

 

 

本や文章を読むのは好きだし綺麗な風景をみるのも好きだ。けれども意外とそういう欲求よりも文字を鉛筆でちゃんと書けなくなること以外は、そんなになくても大丈夫という、みるということへの欲求が意外と私の中に沈んでいるという発見があった。

 

不自由さは周りの方が大変になるなとおもうのだけれど、意外と目をつむってご飯をつくることもできるし、見た目を気にする部分も客観的にみることもなし。

ましてや人の雰囲気や顔色をみすぎる癖から解放される。

 

いまもSNSは、控えているけれどそういうことからも自由だ。

 

本当に伝えたいことはゆっくりで、肉筆肉声がよい。

 

なぜか目のトラブルの前日に友人が光という映画の話をしていた。

みえない人のための映画の翻訳の仕事の話。

 

そんなことを思い出しながらふと、オーロラの旅行雑誌を開けると谷川俊太郎の詩の一片

 

目で聴く

 

という表現

 

こないだから谷川俊太郎の詩について書いていたがなんというか谷川氏の詩は先の先をゆく想像性を含んでいる。

 

耳でみることもできる、なにか感覚がひとつ損なわれたぶん別の感覚が蘇る/もしくはうまれるような。

 

盲人は賢者にみえる、という言葉があるよ、映画の話をしていた友人は言っていた。

 

ここは目をつむっておこう、という表現もあるが、少しイライラしたとき、心がざわついたとき瞑想のように目を瞑る癖ができそうだ。