以前出会った、さみしいかしの木という歌。歌詞はあの、やなせたかしさん
https://m.youtube.com/watch?v=m0-Bi4QcpXQ
風のような友人と、水のような友人と一緒にいたとき、木のようだ、といわれた私は、そのとき自分を認められなくて、風をうらやましく水をうらやましくおもい、さみしい気持ちになっていたのですが、自分を認めていこうとしていたら意外と、というか木もいいもんだ、、と思えたのです。不動だ、(不動であることも悪くないのですが)と思っていた性質が実は不動ではない上へ下へとのびていく。
確かに鳥のようにはばたく人や風のように流れていく人に憧れは抱くのだけれど、木は、木なりに生きてみようと。
比べたり、馴染めてないと感じることも、さみしさも、中途半端なつながりの中でいると余計にさみしいものです。
意識して隠者となってみる
それがむりなら1人の時間をつくってみる
根を張ってみる。
(いや根を張っていることにめをむけてみるか)
ひとりになると孤独ではないし、考える力が湧く。いやひとりにならないと考える力は湧かないと思う。
風も、鳥も、木も群れることはあっても単独、ひとり、です。
人も同じく
でも一緒にいることの強みがかえって同調圧力になってしまうことがあります。
(講演会なんかで感想を、といわれると私は真っ白になるか、思ってもみないことを口にしてしまう。。訓練も必要だとおもうけれど)
私は、どう考えるか、が優先にあった上での、私たちはどう考えるか、どう生きるか、だと思うのです。
そう思ったことを否定も肯定もお互いにしない、というルールがあればどんなにか気が楽でしょう。
こないだ「空と土のあいだで」
という長田弘さんの詩に出会いました。
さみしいかしの木と同じ、木のことです。
でもこの木は時間を旅するという。
同じように根をはり、枝をはっていくことが自由であるという。
「自由とはどこかへ立ち去ることではない。考え深くここに生きることが、自由だ。樹のように、空と土のあいだで」
結局、人も木も、もちろん風や水も、
必要な存在。
でもどうせならよりよく生きたい。
(いまひとつ、いま思ってることがまとまらない。まとまらないなりに浮上してることだけ書いてみた)
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「空と土のあいだで」
どこまでも根は下りてゆく。
どこまでも枝々は上ってゆく。
どこまでも根は土を掴もうとする。
どこまでも枝々は、空を掴もうとする。
おそろしくなるくらい大きな樹だ。
見上げると、
つむじ風のようにくるくる廻って、
日の光が静かに落ちてきた。
影が地に滲むよつにひろがった。
なぜそこにじっとしている?
なぜ自由に旅しようとしない?
白い雲が、黒い樹に言った。
三百年、わたしはここに立っている。
そうやって、わたしは時間を旅してきた。黒い樹がようやく答えたとき、
雲は去って、もうどこにもいなかった。
巡る年とともに、おおきな樹は、節くれ、さらばえ、老いていった。
やがて来る死が、根にからみついた。
だが、樹の枝々は、新しい芽をはぐくんだ。
自由とは、どこかへ立ち去ることではない。考え深くここに生きることが、自由だ。樹のように、空と土のあいだで。
#宇宙兄弟31eddy