庭の、ちいさなちいさなお茶の木。今年の新芽をお茶にしてほんの少し。
無色透明に近いそのお茶
驚くほどに薫ったのです。
水辺にいくと、とても生きた心地がするのはこういう「薫り」を生き物としての私が放つ瞬間があるからかも。
五感をひらいていなければ気づかない、ささやかなそれ
もうそのあとの賑やかな楽しさにしばし忘れていたのですが、夜ふとその瞬間をおもいだしました。
少し前に、ぜひにと誘われた映画の中でも水辺にいくシーンがありました。
森の中のちいさな湖
そこでカヌーにのることもあるでしょう。
スティルウォーター教なのです、と仰る映画の中の人は静かに森の中から水辺へと歩いていく。
近くに水辺はないけれどこうやってお茶をのんだり、花を生けたりすることは少しでもその感覚近くにいたいとすることなのかもしれない。
しずくに近いほどの杯のお茶にそのすべてが凝縮されているよなあ。。と昨日、歳を重ねた日の一杯のお茶に答えをいただいたのでした。
明鏡止水