ジャックタチのぼくの叔父さんシリーズが好きだった。
フランス映画のお洒落さとコミカルさ。
立ち位置的には少し寅さんともかぶる?
こないだ娘の友達がお茶をたててくれた。季節の和菓子をこれから一年続けて食べる、、という夢みたいな企画の中で、お茶の話から茶人の叔父さんの話になった。
友人の話では子供の頃から少し変わった叔父さんが茶の趣味を彼女に伝えてきて、彼女いわく今のいろんな趣向の礎になったかな、と。
父親はいる。でもその関係とは違う「私」と「叔父さん」の距離感を私も思い出した。
深いところではやっぱり距離をおいても無視しても反面教師と捉えても父親の存在は否めないのだけれど、そこでの逃げ道というか、叔父さんたちにはたすけられた。山に行くのも、工芸的なことも生産的なところで叔父さんたちの存在。こどもの自分には大きかった。
叔父さんたちが父親よりもあまりに立派でくらべる自分がそこに誕生してしまったけれど、子ども時代は本当にお世話になったし影響も受けたと思う。
そんなわけで大人になってジャックタチのぼくの叔父さんをみたときどうも惹かれてしまった。私の叔父さんとはもちろん違うけれど、まあ叔父さんコンプレックスとでもいうべきか。
どこか社会からもなんとなく浮いているけれど愛すべき存在のぼくの叔父さん。
ぼくの家は最新で両親も都会的なのだけれど、どこかコミカル。作り手の皮肉を感じる。でも叔父さんの家は古くて蚤の市みたい。ファニーではあるのだけれど懐かしい当たり前さを感じる。家でさせてもらえないちょっとあかんこともさせてもらえてぼくは叔父さんが好きなのだけれど両親にはあまりいい顔をされない。
ぼくも、両親のことは好きなのだけれどいきぐるしさをおぼえてて、叔父さんの存在に救われる。
親戚というくくりで叔父さんに限定するとそんな人いない、という人もいるだろうけど、なんだか最近は友人が親戚のような気がしてる。お父さんに足りないものをこどもが求めたり。違うこどもがうちのお父さんに何か求めたり。
週末もオープンハウスをしていた友人夫婦のお宅をたずねたらひとりの男の人にずっとこどもたちがまとわりついていてついぞ彼とは一言くらいしか話さなかった。家主(男性)がずっと汗かきながら抱っこしている赤ちゃんも、来ていたお客さんのこどもだった。
あまりに親子関係だけだと煮つまる。日常の、不幸になりがちな関係性に、親もこどももたまに親戚みたいな人たちと集まってみるとスペースがひろがっていいのかもしれない。
なんとなく男性は叔父さん、だけれど女性の距離感のある存在はおばあさんと思うのは、ただ単に本の影響か。