常に失恋状態だ
というしょっぱなの友の言葉に
自分の中にあるなにかが共鳴してしまって、それどういうこと?ときくのだけれど説明できないという。
さみしさからはじめよう。というテーマの我が家でのブックトークカフェはまさかの本不在ではじまった。
「失恋状態」
話も終盤になってそんな言葉を発した彼がせっかくだしとおもむろにだしたのはけんかばっかりしてる不良漫画。ボーンと殴ったり殴られたり。それ以下でもそれ以上でもない。(そうじゃなかったらごめんなさい)
ああこの漫画のヒトたち、寂しいんやなあ、、と、はっときがついた。
さみしさを、ボーンとなぐったり殴られたりでなんとか解消しようとする(たぶん。)それを読むことで擬似体験もしくは身代わりに体験。
私自身はプロレスのたのしさを共感できなくてこの漫画でもそのさみしさを擬似体験できる自信はないのだけど、
暴力とか性とか死とか、って生きることへの憧れというか反動というか。
命がけでここにもきた、というてた。
私も結構命がけで行くところがある。
かつてはどこもそんなところばかりで
他の人にはそうでもないのかも、私だけおかしいと思いつつひとつの場所にひたすら通い続けたことも。身を守るために祈らずにはいられないところも。
でもなんで行くんだろう。いけにえになるために?
カナリアになるために?
思いがまとまらない。
相手がいての失恋だけど、相手に失恋してしまう私にも失恋。
ここで失望という言葉は使わない。
失恋ていう時点でまだ愛じゃないのか、愛なんて言葉日本にはなかった、いまの私はそんなものあるのか。
管となることでそんな失恋状態の私から、スポイト、もしくは寒天つくる道具のようになにかに上からおしだされることで解放されることがある。
いつもそれができたならさみしさから解放されるのか。
でもさみしさがあるからこそそこに到達できるのか。
暴力という言葉はすこしちがうけど上からの押し出しは暴力と近いのかもしれない。