書を捨てて、、と謳ったのはたしか寺山修司。
それはどういう意味?
旅には本は不可欠だけれど?と思ったものだ。
今朝、起きてうかんだことば。から連想する。(朝浮かぶことは夢の中のふるいにかけられた言葉だと思っている)
私がつけくわえるなら、
書を捨てて旅に出よ、書を携えて。
いや、携えて、というより
書を捨てて旅に出よ、さすればまた得る
荷物は最小限の、長めの旅に出ていた息子の行く先には新しい出会いがあったのだと思う。本の出会いもあったかもだけれど、書を捨てよ、というのはまずは頭の中だけの世界から脱出せよ、ということなのか。
何冊も何冊も本棚には憧れと妄想から脱出できない本がある。
ずっと何年も何年もそれはあるのだけれど、昨日、長い旅から帰ってきてまだ疲れのとれない息子が本棚をみて叫んだ。
これ、おれが旅先の本屋でみて読みたくなったやつ!
多分旅にでると、家にかえってきたときの風景も変わる。旅眼鏡というべきか、
まず自分の中の書をすてる。
一度でる。
また戻ってきたときの風景は同じものでも新しいし、全く違う観点から見るのかもしれない。
息子が読みたい、といったのは、ソローの森の生活
今回そんな思想と実践をしている方々のところへもお世話になったこともあるけれど、
帰宅後家の本棚(親の本棚)に読みたいのがたくさんある!と言ってくれたのは嬉しかった。
また、直島での森山未来の言った言葉を思い出す。
「あなたは自分の家から出て、この島にやってきた。そしてまた帰っていくけれどそこはもう以前のあなたの家ではない。」みたいなことを踊りながら話していた。
私にとっても旅は、日常やそこにずっと変わらずにあったもの、あり続けるものへの新しい確認であり、スパイスである。