かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

breathing


10月1日




私の父親がなくなって早6年。

6年前、父親と理由があって会わなくなって8年が経とうとしていた秋口、私は精神的に結構きつい状態にありました。

その状態になにかしら原因とか、理由づけすることはできるけれど、もしかしたらそういう父親のことを無意識のうちに身体で感じていたのかもしれない。

私の体調を気に病んで母親が子守にきてくれていたのに翌朝、起きると母が居なくなっている。

連絡するとそういうことだった。

ちいさな葬式をあげた。夫がギターを弾いて賛美歌を歌った。父親はクリスチャンではないけれど。

やっぱりこの時期になると具合が悪くなる。そして母から今日は命日だよときいて思い出す。

写真を飾ることも墓参りもなかなか行けなかった。

父が亡くなった1年後ある整体の先生に身体をさわってもらった。

ちょうど今から5年前。
すぐに、、父親に手紙を書くといい、といわれた。

私は本当にびっくりした。父はなくなっていることを伝えると、なおのこといい、出さなくていい手紙なのだから。

泣きながら書いた。文章にならなかったと思う。会いたくないと、蓋をしていた心が蓋を開けてしまった途端どよめくようにわっとでた。

その後何年かはよくガラスのように繊細になっていた。何か傷つけるものがあったのには間違いないが、傷つきやすかった。



この夏の父の誕生日にふとその重いものが軽くなった気がした。

ゆるし、という言葉がふさわしいかどうかわからない。でも留まっていたなにかがふっと蒸発したような気がした。

命日すぎて、昨日庭の秋名菊がようやくさいた。

父親に飾ろうとおもった。

やっと思えた、と思った。

散々苦労かけられただろう母は、毎年命日を覚えていて毎年今日だね、と連絡してくる。記念のごはんも食べようと誘ってくる。
私がわすれてしまうのは、無意識に忘却機能が作動してしまっているからかもしれない。

しかし命とはほんとうに大きなものだ、と実感する。

私は父がいなかったら存在していないのだな、その関係性を否定したい思いが自分を否定したい思いに発展していくこともあったけれど、
それすらも昇華する次元がある。

息を吐いて人間はうまれ、息を吸って死んでいく。

呼吸は毎回毎回うまれては死んでいく、の繰り返しだ。とふと思った。