戦前アメリカにも、日本にも拒絶された傷のあるイサムノグチは何をいまさら、とNo、という。
ところがそのオファーをしたキュレーターはそこで諦めない。そればかりかNoからはじまるダンス、といって、そこからYesにつなげる交渉を嬉々としはじめるのだ。(結果、イサムノグチはオファーをうける)
言葉でNoといわれなくても、なんというか、歓迎されてないときが大なり小なりたまにおとずれる。
拒絶されたくない。拒絶に弱くない人はいないだろうけど、故意でなくてもそうでも拒絶や無視は辛い。
傷つきたくないから蓋を閉じることも結構ある。
しかし、愛の反対は無関心という。
好きの反対は嫌いではないわけだ。
(無視と無関心は違う)
ならば
Yesと、Noはオセロのようにひっくり返ることだってあるわけだ。
へんに楽観的だけれど、YesといわれたときにはNoに展開していくかもとは考えない。
でもNoの積み重ねの後、Yesを得たら、そのYesは一回目のYesより重みがある。めったにひっくりかえらないかもしれない。
信頼関係の築きともいえるかもしれない。
こどもとのNoの場面はよくある。自分の自信のなさから表面的なNoに、ああ。。と思ってしまう横で、いつのまにかわらっているこどもの姿がある。
Noの奥のYesを見出せ、とでもいうべきか。
Noを感じても、それでもなにかおもうときは、めげずに足繁くその場に通うことだよ、といわれたことも。
行かなくていい場所、合わなくていい人とは逆に円満に離れていくと。
どちらにころんでも感謝できる心構えがなによりも肝心なのかもしれない。