かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

「ひらく」と「とじる」


人、それも親族との集まりとなると私はどうも億劫になっていた。

気持ちが閉じてるときはどうしても他の人がキラキラしてみえるし、波長もあわない。

でもいつのまにか私が開いてるときがくる。

過去の記憶のまま接していてあれ?というときがきたりする。
関係性ももどったり、話せなかった人と話せるようになったり
ずっと繰り返し惰性のように続いていた関係があるとき、ぴたっと止まったりして、何故、、?と思うとしばらく

自然な形でまた再開したりすることも。


連休ということで恒例になっている祖父母の墓参りと食事会。その後20年ぶりに再訪した叔父の家にはいつのまにかツリーハウスを作られていた。
上にあがるところの上には閉められるように蓋がある。

写真にあるようになんといえない素敵な風情で開け閉めができる。

ツリーハウスに関心しつつ、数年ぶりに会う従兄弟とまったりしていると、下から叔母が話そうという。

幼少のころから自分の家のことで精一杯で、他の家族はキラキラにしかみえなかった。その間にみえなかったそれぞれの苦労話。え、そんなことが?といろいろはなした。幸せそうにみえてもだれだって多少いろいろある。

見た目で判断して閉じてしまっていた。


そんな話をお互いシェアできるところまで自分がある時期から快復、そしていま少し開けているというのは喜ばしいことだと感じる。

でもひらくときも、とじるときもあっていい。

どうして〇〇さんと同じようにうまく「開く」ことが私にはできないんだろう?と落ち込むこともあった。
けれどその人はみえない形で上手に開け閉めしているんだ、と思う。

不器用に開けっ放しで傷ついてしまった。だからがっちり次は閉じようとする。

でもうまーく開け閉めができると、きっと傷つくことも少ないのではないのかな。
開けっ放しにみえるようでもちゃんと閉めるところでは閉めている。

海からの贈り物にでてくるようにちゃんとひとり時間もとっていたり。


私はそこんとこ不器用だ。そんな私も責めないで肯定しよう、としたら、意外と親戚とのつきあいも楽だった。

私から発してるものが、無理してるものか、そうでないのかがなんとなく他人はわかるのかもしれない。

何はともあれ、閉めてる時も開いてるときも自分を責めないことだ。