かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

みる


美術作品を見るとき、とくに抽象的なものは、心に作用してくると思う。
ジェームスタレル然り、マークロスコ然り。


しかし創造された者のつくるものは所詮創造された被造物を超えることはできない。


海に浮かぶ島にある作品を見たあと海岸べりまでいくとその作品を眺めたときにわきいでた感覚がさらに本当の感覚として確認されていく。美術作品は、感覚をひきだす装置であると思う。


偶然のように流れては消えていく水。それは海岸でひっきりなしに寄せてはかえす波に似ている。決して何も同じ波はない。
海岸べりには、小屋の中に別の美術作品があった。なにやら数人の人達がヘッドホンでなにかをきいている。
心臓の音云々、、というタイトルだった。

私にはそのまま波の音が心臓の音にきこえた。小屋にいくこともなく海岸を歩いた。

波の音をきくと落ち着く。内在化していく。私は与えられるままだ。

生きているものはそれだけで祝福か。
内藤礼の問いと作品。


何の予備知識なく作品の中に入った。
そこにはなんの説明もない。
私もここであまり説明したくない。
表面的にただ面白い、とかそういうものではない。

ここにずっと居てもいいのならいたい。
生きる喜びが沸々とわいてくる。


そこから離れるとあわてたように無意識の中でそれを強く否定しようとする輩がくる。夢の中で、私の内部で。

与えられ続けているものを感謝する。それを受け取り続けること自体、感謝することを選ぶこと自体たたかいであるとわかる。
でも感謝しかないんだ。

与えられているものを確認するために芸術はあるのかもしれない。

そこに他人の評価は存在しない。
私がいかに生の喜びの中に存在するか。
内在化するか。




ー前回の引用より


ある場合に、「見る」ことは「認める」ことでもあり、それはまた、「それはそれであると思う」ことだと思うのです。
「それはそれであると思わないのではない」のです。
私の「見る」働きかけと、対象からの「見る」働きかけが同時にあり、互いに「見られている」と感じたとき、自他の区別がなくなり、強い肯定感に包まれたことがあります。
対面している世界と私は、互いに、同じように、愛の働きかけをしようと待っていたのだと感じたのです。
湧き出るように、目の前に現れようとしているひそやかで不確かなものは、もしかするといま私に向けられたのではないか、私はそれを受けとったのではないかと感じたとき、受けとっているものの他にも何か欲しいと思うでしょうか。
私は思わない。