かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

地上に存在しているものはそれだけで祝福であるか

内藤礼のことばより


ーーある場合に、「見る」ことは「認める」ことでもあり、それはまた、「それはそれであると思う」ことだと思うのです。
「それはそれであると思わないのではない」のです。
私の「見る」働きかけと、対象からの「見る」働きかけが同時にあり、互いに「見られている」と感じたとき、自他の区別がなくなり、強い肯定感に包まれたことがあります。
対面している世界と私は、互いに、同じように、愛の働きかけをしようと待っていたのだと感じたのです。
湧き出るように、目の前に現れようとしているひそやかで不確かなものは、もしかするといま私に向けられたのではないか、私はそれを受けとったのではないかと感じたとき、受けとっているものの他にも何か欲しいと思うでしょうか。
私は思わない。
やって来るのはいつもむこうからです。私はいつも受けるがわで、私にできるのは、受けとっています、とお礼をつたえることくらいです。だから何度でも何度でも、私は見ています、 受けとっていますとつたえます。
光も色彩も形も眼差しも、花々も木の輝きも鳥の声も、そしてこの感情も、命も、どこからかやって来る。
「信の感情」は、美術館で一人で過ごしていたとき、ふと浮かんだ言葉です。