かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

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“14:1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。”
新約聖書ヨハネ福音書より



rooms美術と音楽の1日という、芦屋美術館の企画にいこうとする朝


行く前に最近つづけて読んでいる聖書の箇所もこんなところだった。


最近はどうも'room'づいていてる。


この前夜、若くしてjさんが天に旅立ち、jさんを旅する会と称したお別れ会にいってきた


彼女はたくさんの人の居場所をつくることにかけて才能あふれる方、、、


おうちの鍵をかけないで近所の子たちが自由に出入りできるようにしているというのもきいていた。私も彼女のおかげで知らなかったいけなかった近所の場所に行ったり、出会ったりした。
天に旅立つ前日までだれかしら会いにいき、知らない人をつなげようとしてくれていたそうだ。

会もそんな雰囲気だった。

旅だたれる前に彼女の好きだった歌に出逢い、この曲、歌いたい。と思ったら。作者の方に引き寄せられるように出逢えた。これはjさんがしてくれたこと、、と想っている。


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部屋、居場所、スペースのひろがり




1人の人と1人の人がつながることでその人にとっての居場所がひろがる。




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芦屋美術館のARTはどれも興味深く、特にharukanamuraの音楽は場の雰囲気をかえる。即興的で実験的だ。
即興的な中にも彼のリフレインがあり、それがとめどなくあふれてくる。


なんというか、制限がない。



永遠という言葉をつかうのには自信がないけれどあふれるというのはこういうことだ、と思った。


私なんてだめだ、、と自分の力に制限をかけてしまうこともある。内在するモノを信じることができなくて。


私の場所がない/私には力がない/あのひとばかり/と思ってしまうこともある。

私、と思うからなのかもしれない。

いや、「私」は必要だ。小さくとも異色であっても。

ちいさくても与えられたものを十分に生かすこと、循環させていくこと。

循環と、永続。


ちいさくてもあふれるほどに与えたり表現すればするほどどんどんそういう力は湧いてくるということをharukanamura の音楽を聴いていると感じる。


それはjさんに関してもそうだ。
同じようにダイナミックには生きられないとどうしても自分をみたとき思うけれど、それは「私」を意識しすぎている。

そこに比較はいらない。ちからの大きさの大小も。

とおりのよい管のようにちいさくても与えられるひとになろう。力は私の奥から泉のように湧いてくる。
おのずから居場所もひろがっていく。

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