四季のめぐり、1日のめぐり
日が暮れて朝が来る
くりかえしのリズムに安心する心地、シュタイナーのいうところの
うまれてきてまもない7年間はそういうくりかえしのリズムに安心する。
人間の根源的な欲求というか、安心感なのかもしれない。
先日言語造形の先生のお話会があった。
民俗学者の柳田国男はひと昔前の日本の国語教育について調べこう語っているという。
「自分の言葉で人前で話すことができるようになれば一人前」
明治以前、それが生活の中ですべての人ができていた、というから驚きだ。
そのために学校もない時代どのようにすごしてきたか。
子守は基本親ではなくじいさまばあさまの仕事。
同じ話をくりかえしくりかえし語る。
同じわらべうたをくりかえしくりかえしうたいながら子守をする。
ちいさな子はそれで満足するものだ。
農作業の傍ら口ずさむメロディがある。
ちいさな子は意味はわからなくてもいい。
同じ話の中で言葉が生きたものとなっていく。こどもは「きく」ことで養っていく。
ところが近代ではそういったことがなくなってきている。
手足をつかって大人が仕事しない。作業のときの歌などない。歌い継がれてきた歌も生活にねざしてはおらず。
でもだからこそ意識してみる。
同じ物語に、同じ詩に呼吸をしながら、
大人が思う以上にこどもの中でことばの景色がひろがる。
物語が字面からたちあがってくる。
、、、、
半農半Xの、半農の部分をしっかりしてたら、もう半分の仕事の、意欲やアイディアは泉のように湧いてくる、といった話をたき火してる中で若い子たちと話した。
手を動かすことがたいせつ、と言っていたシュタイナーのことばにも通じる。
友人である彼らは半農半芸をすでに試みている。
米や野菜を作りつつ、カフェや音楽活動をしている。
いや農と芸術は本来切っても切れないものなのだ。とあらためて認識する。
田植えうた、茶つみうた、、etc
さて私といえば庭の木々や、菜園に心傾ける程度なのだけれど、それでも庭をいじったり花をつんでは生けるだけで内側から湧き出てくるものを感じる。
家からでるごみが土に混ざるとやがて堆肥になるように、マイナスと思える感情も土に触れることで浄化されていく。
くりかえしの季節がめぐるとなにもみえない土にも芽が出、花もさくのだ。