かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

源にあるモノ


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少し前の秋のこと。


すてきな収集や絵

小学生である友人のおこさんの展示
ご両親の思いもつまった石や漂流物の標本のコレクション。



キラキラした展示だった。
展示することの意味も考えたひと時だった。



親とこどものセンスが重なるとは限らない。違う人格だし、それでもどうにか重なる部分をさがしたり自分との違いを楽しんだり。



教育という本来の意味は、引き出す。という意味だときく。


ひきだしてもらえる人との出会いがそのこどもにとって、大きなこと。
わざわざ大人がなにかしなくてもあふれ出るこどももいたりする。
でもその環境をさりげなく整えるのは大人の仕事だ。

ホームスクーリングに憧れたけどいまのところ私のこどもたちは普通に学校にいっており、課せられた宿題をする。
情けない気持ちに毎回なるのだけれど、宿題やりなさいね、といってしまうわたし。
そのあとに残された時間でこどもは何をするか。

電子ゲーム、になるのはなんだか哀しくなってしまうのは大人の言い分。うちはゲームはないけれどそういうものも含めてこどものやりたいことをやる時間が少ない。


今の教育は批判や評価のウェイトが大きいけれど、流行ってるからやらされてるからじゃなくてひとりひとりのこどもが集中してやりたいことをしている姿はとても嬉しい。

それをうまくカタチにできる力を養うことができるか。。


そして私を含む大人になった人も「こども」の要素がたくさんのこっているはず。

芸術はそういう「こども」の要素がとくにクローズアップされる。

今読んでいる本の中でパウルクレーは、こどもの絵は芸術家のいうところのそれとは違う、と断言した上でこどものような絵を描く。
小学生の娘がすきなクレーの絵がたくさんある。



「やらなければいけないこと」に埋没された「キラキラ」を発掘する作業。
こどもは、そういう「やらなければいけない」ことが少ないからこそやりたいことに没頭するのかも。